2005-04-01から1ヶ月間の記事一覧

2月も2週目に入ったある日、電話口から聞こえる奇妙な南部訛りの男の声で起こされた。 「もしもし・・・」 ランス・スコット牧師と名乗るその男は、マークの妻の両親が所属するランドマーク・バプテスト教会の主任担当牧師だという。私は警戒心を解いた。 「…

私は彼に様々ないくつかの教会の関係者の名前を教えて家へ送っていった。彼らは私の友人であり、マークが彼らと連絡を取れるように取り計らったのだ。月曜日の朝に会う約束をし、私はその後、ガソリンがすっかりなくなるまであてもなくドライブした。私が家…

1ヶ月が過ぎ、私はマークが会いに来るのではないかと期待していた。彼とは和解する必要があると感じていたのだ。月曜日の夜、玄関のベルが鳴った。マークかと思い、鍵穴から覗いてみると、何とそこにはオスカー牧師が立っていた。 「こんばんは・・・入って…

私は妻とともに、カリフォルニア州ターロック市に全日制のミッションスクールを設立する準備にとりかかった。幼稚園から高校3年生までの学校を9月中旬までに開校するのは、至難の業だった。私達のビジョンがとてつもなく壮大なものだったのか、ただ単に世…

次の朝、私は校長に呼ばれた。 「ストーン博士と協議した後、ビル・シーザーはストレートAで卒業した。残念ながら君は私の道を選ばないのだね。」 こうして私はクビになった。妻は私に、少しは妥協し博士の言う通りにして教師の職に戻ってほしいと頼んだ。ま…

2学期の生徒達の公式な成績となる中間試験の採点が出た。ビル・シーザーという高学年の生徒が教室に荒々しく入ってきて、私の前に立った。ちょうど昼時で、私は机にお弁当を広げて食べているところだった。 「胤森先生、僕の中間試験の成績がBというのはど…

ある日曜の朝の礼拝の前に、ストーン博士が私のことをヒロシマの生き残りだと大げさに紹介したことが評判となり、私は直ぐに知られるようになった。まるで、神からの恩恵を受けたトロフィーのようだった。彼によって、私の人生が花開き始めているかのようだ…

数日後のある朝、私は経営幹部の秘書のマッキニーさんから呼び出され、第一バプテスト教会とバプテスト学校のシステムを作ったジェームス・ストーン博士のもとへ行くように促された。彼は会長の帽子をかぶっていた。私は学校のシステムもストーン博士が誰か…

次の火曜日の夜、ゆっくり1人で休んでいるところに、教会の評議委員会の人が2人でやって来て、月曜日の夜に緊急会議を開くことを伝えて封筒を手渡した。 「おお、これはどういうことだ? こんなこと、信じられない!」 私は封筒に顔を埋め、何度も何度も叫…

10月のある日曜日の朝の奉仕で、新しい牧師のケン・ノートンの優しさの中にある情熱やカリスマ的な説教スタイルが多くの聴衆のハートをつかんだ。「アーメン!」と、瞬間的に強く叫ぶその声は、教会の内陣に大きく木霊した。最終票は上級牧師になるケン・ノ…

たった11km先の田舎道がどうなっているのか、私には分からなかった。ある日曜日の朝、エイボン・バプテスト教会での奉仕活動の後、信徒たちに歓迎された。仕事場のドアに「副教会長 胤森T.トーマス牧師」と書かれた額が付けられていたのには、感慨深いものが…

ジョイスは、出産が今日あたりだと感じ、私がどこにいるかすぐわかるように、教会秘書に行き先をちゃんと知らせておくようにと言っていた。夕方、教会秘書のマルタが、教会仲間の1人を訪ねていた私を見つけ出した。しかし、その時、妻はすでに地元の病院に…

インディアナ州インディアナポリスから西へおよそ15マイルのところにあるプレインフィールドという小さな田舎町。その町のプレインフィールド教会の入口に紫色の聖職服を着て立ち、私は神の愛を伝道する牧師職の神聖さに改めて気づかされた。しかし、愛と奉…

次の日、学部長からの通知が郵便受けに届いていた。通知は簡単なものだった。1968年3月16日午後1時15分から、大学の委員会と話し合いの場がもたれるというものだった。しかしなぜ、学部長による委員会なのか。議長とキム・サム博士とリチャード・スナイダー…

1968年1月の冬休みから戻った時は、ミネソタで最も寒い冬となった。私達の居心地の良かった家はスズメバチの巣のようになった。私達はプライバシーとを失い、怒りっぽくなっていた。客人としての感覚が喪失したような韓国人学生達を見るのも嫌になっていた。…

ミネアポリスの中心部にある私達の神学校は、極端に保守的なバプテスト神学の隔離された要塞として知られていた。教会の教授や指導者に意見することなく、教義への従順が絶対視されていた。二者択一しかないように見え始めたことで私は困惑した。教義に盲目…

「ついにこの日が来た!」 私は喜びとともに叫んだ。4時きっかりにすべてのフラワーアレンジメントがやってきた。祭壇には3つの白いキャンドルが飾られていた。中村先生と私がよく、村の生活の現実から逃れていた落ち着く日本庭園のある小さな神社を思い出…

私達が直面している問題は、すべての招待客を恥ずかしくない披露宴に招くことができるほどの十分なお金を持っていないということだった。 「私達に必要なことは、招待客に私達を紹介する機会を提供することよ。ただコーヒーやお茶やウェディングケーキがあれ…

光り輝いたミネソタの秋がやって来た。ジョイスは大学最後の年を迎えていた。私は個人的にジョイスの父親に会って、彼から受け入れてもらえるような機会をうかがっていた。ところが、彼は激しく怒っていた。 「私は娘に会いに来たのであって、日本人のお前に…

ミネアポリスから南西に車で2時間ほど走ったところにあるセントピーター市で聖職者として働く神学生レイ・ポープが、ある日突然、彼が働く教会の信者に話をしてみないか、と私を招待した。私は大いに疑っていた。大学生活で私に話すよう頼んだ人は彼が初めて…

私は上級生になり、信じられないことに12人の白人生徒と共に大学院レベルの聖書のヘブライ語を勉強していた。そして1963年11月23日、ある信じられない出来事が起こった。教室に飛び込んできた生徒が、ジョン・F・ケネディ大統領が銃弾に倒れた、と知らせに…

1964年2月14日に行われたバレンタイン・スイートハート・パーティーでの公式デートで、ジョイスと私は3組のカップルと共に、相手の半径約15cm以内に近づいてはいけないという校内の風紀規定に引っかかり、不適切な方法で女性の太ももに触れたという罪で通報…

私の大学最後の1年間、いや、残りの人生で重要な役割を果たす人物がいた。その女性は、信仰と熱意を試され鍛えられた日本人の若い男である私の将来を決定づけた。これが、中国系アメリカ人2世で、アリゾナ州ツーソン市からやって来た東洋人の女性との初め…

私は今年の夏、300ドルを稼いだフレズノの“平和の労働”でホッチンス氏に出会ったのだった。彼が白いキャデラックに乗って、私に会いに移民労働施設にやってきた日のことを私はよく覚えていた。白いパナマスーツを着こなし、白いパナマ帽をかぶっていた。スー…