「今日、医者にいずれ目が見えなくなるだろうと言われた」 私は日記にそう書いた。そして、色あせた小さな父の写真を取り出した。私には、父の写真を見ることがどうしても必要だった。“丸に立ち葵”の家紋の入った着物を着ている父を見ると、私の心はたとえ嵐の中でも、自分が胤森家の長男であるということを思い出すことができた。


1987年、日米の文化コンサルタントとして、カリフォルニア農林省を代表して東京で仕事をしている時、私の運命は再び試された。何十年も前に受けた原爆の後遺症から、盲目になっていくことが発覚したのだ。


「私はもう二度とヒロシマの影から逃げることはできないのか?」 


私の中から再び原爆と家族をめちゃくちゃにしたアメリカ人に対する怒りがわき上がった。原爆孤児として受けた冷たい扱いに対する憎しみも再び浮上した。あの爆風が家族を連れ去り、今や私の視力、自立した生活、そして人間の尊厳までも奪おうとしている。まるでカメラのシャッターが下りたように、私の世界はすぐに真っ暗な深海に突き落とされ、針の穴ほどの光が暗闇を貫いているだけだった。


文化コンサルタントとしての2年間の契約も、日本側から一方的に破棄された。日本の文化では、盲目は若い時の罪によるものであり、盲人はもはや完全な人間ではなく、社会のお荷物であるとされていた。“社会のお荷物”だなんて、どうして耐えることができるだろうか。しかし、彼らの顔を立てる最良の方法だと言われ、同意せざるを得なかった。


私は自分の運命を悟り、帰国のため成田空港にいた。飛行機に乗る前、仲村先生に似た年配の女性を見かけ、思わず自分の目を拭った。その女性は、搭乗ゲートを通り抜けて旅立っていく人達を優しく見つめ、手を振りながらさようならを言っていた。その口元が、まるで「貴士くん」と言っているようだった。家に戻るだけの長いフライト。私は座席に深く座りながら、先ほどの女性の姿を振り払うことが出来ずにいた。ただただ過去の痛みを感じ、未来が真っ暗に思えた。小さくなっていく未来のビジョンを何とか維持しようと、私は何度も父の写真を見直していた。


これから一体どんなことが私の身にふりかかってくるのだろう。「私に何ができるというんだ!」私はこらえきれずに大声で叫んだ。私の世界は益々暗くなり、街路表示や消火栓、電信柱、新聞の自動販売機、ゴミ箱など、通りの至る所に“ドン”とぶつかった。路面の凸凹や歩道の縁にしょっちゅうつまずいた。そんな経験を毎日繰り返す中で、まごつきながらも手探りで暗闇のような迷路を通り抜けるコツをつかんでいった。


アメリカの生活スタイルからすると、今まで私は移動手段を自動車に頼っていた。しかし、視力が悪くなるにつれ、車の運転も断念しなければならなくなった。突然、私は人に依存する生活になり、たいていの場合、“目の見える”人の慈悲に頼らなければならなくなった。


私の最初の苦しみは、肉体的な障害を克服することだけではなく、障害のために差別されているということだった。通りでは何度も何度も至る所でつまずき、公共の交通機関は、自由に、そして安全に乗り物に乗ることさえできず、多くの当たり前の行動から締め出された。