次の日、学部長からの通知が郵便受けに届いていた。通知は簡単なものだった。1968年3月16日午後1時15分から、大学の委員会と話し合いの場がもたれるというものだった。しかしなぜ、学部長による委員会なのか。議長とキム・サム博士とリチャード・スナイダー博士とジェームズ・マクドナルド博士、私の大学の顧問とともに明日開かれるというものだった。
「どう思う?」私は妻に通知を渡した。
「そうね、彼らはあなたの働きに特別な褒章を考えているんじゃないのかしら。それ以下のことではないわよ。それに私は思うの。彼等は韓国人学生にしたあなたのはかりきれない貢献すべてにお礼がしたいのよ。」


歓迎の微笑みはなかった。私は進み入った。冷たく疑い深い空気が、威厳ある大学委員会の面々が冷静に座っている小さな部屋に漂っているのを感じた。何も施しのされていない部屋は確かに捕獲部屋のようだった。(誰も何も喋らないのか?)私はもぐもぐと言った。私は学部長が顧問に渡しておいた私の修士論文を持っていることに気づいた。それは280ページからなり、其の中には7ページの引用文のリストが含まれている。この作業は勤勉な研究の最後の2年間を代表するものだ。私は論文を誇りに思っていた。


その時が来た。司祭が軽蔑的に静寂を破り、論文をテーブルの下に投げつけた。
「私は君の解釈にショックを受けたよ。私はなぜ君が論文で私達の理論の見解を反映できないかわからない。」
と彼は怒鳴った。私は口を開けたままだった。(いったい何が起こっているのだろう? なぜ彼らは私と妻の韓国人学生への貢献を認めようとしないのか? 私達が心と魂を最後の5ヶ月間与えたから彼らの論文が認められたのはまぎれもない事実ではないか?)
私は学部長に答える代わりに、キム・サム博士に話し掛けた。
「韓国人学生の良いニュースを聞いて喜んでいます。あなたもさぞ誇りや威厳を持って母国に戻れる教え子達を誇りに思っているじゃないですか?」


「胤森、私達は貴重な時間を、これらのページに受け入れることのできない君の考えについて議論するために集まっているんだぞ。私達はこれを私達の信念の理論を挑発するものと解釈した。君は故意に私達の考えに反している。私達はこの学校の神聖な大広間からの卒業生として、君の行いを受け入れられないとの判断を下した。」


マクドナルド博士!」私は受け入れられない学部長の判決を話し始めた。
「思い出しませんか? 私は来る日も来る日も、特に最後の3ヵ月間は、自分の理論解釈のためにあなたの元へ通いましたね? そしてあなたは私に何度も言いました。実際の所は、より高い教義の中で、複数の教授の擬視に知的に耐え、強い信念や信仰や独自の誠実さを維持するのに優しい魂を持っている私のような日本人の神学部の生徒は見たことがないと。」
「胤森、この委員会で最終決断を下せる力を持っているのは私なんだぞ。私は君がこの学校に入学した時から君を見てきた。少なくとも私達はとても真剣だし、そして真実から間違う生徒を選び出すのは、私のモラルで神聖な義務だ。


彼は助けを求めて委員会の残りのメンバーに目配せをしたと私は感じた。
「もっと重要なことは、私達が君をこの神聖な学校を、私達の神学の位置を代表して、卒業させることができないのが私の判決なんだ。」
「胤森!」
キム・サム博士が最大限の不愉快な精神を表す代表的な東洋の方法で非難しながらついに入ってきた。
「私は学部長の権威への君の不敬を恥ずかしく思う。君は自分の位置がわかっているのか? 君は日本文化の中で育ったんだろう? 恥というものは残っていないのか?」
気味の悪い沈黙がしばらく続いた。
「おそらく君は紳士になる機会がなかったんだ。私達は尊敬と畏敬を持って疑問を持たず権威に従うよう教えてきた。結局、学部長は神がこのようなより高き教えの場所に任命した人なのだ。」


「キム・サム博士、恐れながら・・・」
「胤森、見てみろ!これがまさしく私の言ったことだ。君はこの私にさえも尊敬を払っていない。どうして遮ったのだ。私の話はまだ終わっていない。君のその横柄な態度に困惑しているのだよ。私は決して君が“侍の教え”に厳格に従っていることを期待していない。特に君にはね。私は君の父が教えたことについて、君に言わなくてはならない。」
「キム・サム博士! 私の父のことには決して触れないで下さい。」
私の激しい声が部屋に充満した。


学部長への私の強硬な態度は無駄に終わった。私達が助けた韓国人学生たちは無事卒業し、短い箸を持った私は、大学院のお偉いさんに阻まれ、卒業が認められなかった。