収入のある仕事を失った時は、絶望的な気持ちになった。慈悲深い労働者や納税者の親切な行為によって、政府からわずかな障害者年金を受け取ることはできたが、それだけで人間の尊厳を認められることはなかった。ただ生きるためだけに、“援助”をもらって暮らしていくという生活は、私にとっては屈辱的なものだった。しかし、私の生活はその援助に頼らざるをえなくなり、日常的な行動のほとんど大部分は、“目の見える人”のなすがままだった。竜巻の中で1枚の木の葉があてもなくクルクル回るように、私の心が休まる場所はなかった。この竜巻の嵐の夜の中で、私は問わなければならなかった。
「一体いつまで怒り、落ち込み、否定し、自分を哀れみ、恥と不名誉の中でもがいているのだ? なぜ“普通”でも“完全”な人間でもない個人として、もう二度と目の見える人たちと同じようには社会に貢献できないと認めなければいけないのか?」


その時突然、1946年の春、原爆後に避難した紅葉村から再び広島市に向かった時の光景が思い浮かんだ。私の魂の奥深くに眠っていたあの“命をくれた青い草”記憶がよみがえり、再び前へ進むのを助けてくれた。私は改めて思った。
「小さな草が生き残れるなら、私にもできるはず!」と。私は決して打ち負かされてはいないと思えるようになった。私はこの“障害”を、私自身と他の人々が人間の尊厳と誇りを持って意味のある人生を見つけるのを助けるという前向きな目的のための動機としてとらえようと決心した。新しい挑戦とともに、肉体的な“障害”に直面することができたのだ。


尊厳と気高さ、自分自身の誇り、そして人生の生きがいを持つことは、私達が生きていく上で必要なものだ。私は“目が見える”人達のように、再び社会の本流に戻って、かつてしてきたような社会貢献をしたかった。最大の希望は、なるべく他の人に頼らないことだ。まずは、盲導犬ミチと白状とともに社会の生産的なメンバーになることに集中しよう。


盲導犬ミチは、偉大な友となりパートナーとなった。お互いの気持ちや性格を知るのに3ヶ月ほどかかった。ハーネスを通じて、ミチがどこへ行こうとしているのかが分かるようになった。優しくしてもらいたい時には、大げさに尻尾を振りながら私の手を舐めに来る。私達の間に大きな信頼関係が生まれていた。


ミチのおかげで、生活は素晴らしいものに変わった。しかし、ミチがいつも私をうまく導けるとは限らなかった。公共の交通機関を使うのは簡単にできても、複雑な交差点の横断や初めての道や場所では、私がミチにどちらの方向に向かうかの指示を与えなければならない。自分がどこにいるのか分からないと、ミチに指示を与えることはできないのだ。私には“機械的な目”が必要だった。交通機関から障害物をなくし、ただ安全であるというだけでなく、視覚障害の人が移動するのを援助するための何らかの装置が必要だと実感していた。自分のいる場所を知り、行きたい場所へ行けたり、乗りたい乗り物を識別したり、障害物を探知して回避したり、緊急時には呼び出しができたりする何らかの装置・・・。