今年の1月から約10ヶ月間、『子供らは世界みんなの宝もの』〜鶴と蝶に導かれて〜を応援して頂き、ありがとうございました。私の手元にある原稿を何とか他の方にも読んでもらえないかとの思いでブログ上でアップすることを思いついたのが、昨日のように思い出されます。


秘かに毎日楽しみにして下さった方、コメントやTBして頂いた方、またご自分のブログでも紹介して下さった方・・・。このブログを通して、色々な方とつながることができたこと、これは私にとって今までに感じたことのない新鮮な喜びでした。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。


最後に、今夏に起きた出来事をご紹介して、このブログの更新を終了したいと思います。何か子供が自分の手から離れていくようで、少し寂しいですね。後は、この『子供らは世界みんなの宝もの』〜鶴と蝶に導かれて〜が自由に飛んでいくのに任せたい、そんな気持ちです。


60周年、和解の時(1) 序章
60周年、和解の時(2) ペリーの手紙
60周年、和解の時(3) 嵐の予感
60周年、和解の時(4) 決着
60周年、和解の時(5) 私しかいない・・・
60周年、和解の時(6) 対面の時
60周年、和解の時(7) 共有
60周年、和解の時(8) 解放
60周年、和解の時(9) 源のつながり
60周年、和解の時(10) 夏祭り


今後の活動などについては、こちらのブログにアップしていくことになると思いますので、たまに覗きに来て下さいね。では、みなさんもどうぞお元気で・・・。

数日後、私は希望の光を見つけた。現代の科学技術は、スペースシャトルで数百万マイル離れた月面に人間が降り立ち、安全に地球に帰ってくることができるし、潜水艦で深海の底に広がる未知の領域に入ることができる。どちらも完全に真っ暗な世界だ。これらの技術を応用して、無限に暗い環境にいる盲目の人達がより移動しやすくなるようなシステムを開発できたら、どれほど素晴らしいだろうか。


私は再び熱意を取り戻し、“スマートシティー”と名づけたこのシステムに興奮した。このシステムが他の身体障害者にも認められれば、再び人間の尊厳を持って社会の本流に戻って貢献する道が開ける。私はそう信じていた。しかしそれを設計する知識や能力不足に加えて、そのようなプロジェクトを成し遂げるための資金を持っていないことが悩みの種だった。“奇跡”が起こらない限り、ここから先には進めない。


1994年2月17日、その“奇跡”が起きた。私の提案した誘導システムについて相談するために、カリフォルニア第10地区のビル・ベイカー国会議員に会うことができた。彼はその後、カリフォルニアのリバーモアにある、ローレンス・リバーモア国立研究所(LLNL)の技術者らを加えて、会合の手はずを整えてくれた。提案されたプロジェクトは前へ進もうとしていた。全く見込みのないところから希望をつかんだことは、信じられないほどの喜びだった。暗闇の中だったからこそ、希望を見つけることができたのだ。


LLNLは、冷戦時の爆弾工場の1つであり、実験室はTAGSという電子工学の高度な誘導システムを目標に発展してきた。実験室は“軍事から平和への転換”を遂げようとしていた。実験室の年長者であるトム・ムーアが、もし実現したら携帯電話と同様の効果だと言っていた。バスや電車で病院に通ったり、買い物や野球観戦に行く大勢の高齢者や視覚障害者たちを支援することができる。まさに無限の可能性だ!


1994年7月21日、TAGSプロジェクトの財政援助金を受けるため、ワシントンDCで開かれた米国議会の小委員会の席に呼ばれ、カリフォルニア州議会議員、下院議員、そして大統領の心に訴えかけ、輸送委員会と連絡を取り続けながら4年後を待ちに待った。しかし、全ての努力の甲斐なく、資金援助を受けることは現実にならなかった。LLNLは、資金援助なしでこのプロジェクトを進めることは困難だという決定を下した。


もちろん、私は失望させられ、気を落とした。しかしこれは失敗ではない。ただ挑戦し続けるだけだ。私はしばしば障害に不平を言ってきたが、今はそれが支えとなっている。結果はともあれ、他の人と交わる機会を多く得られたということは、私が恵まれた道の中にいるということだ。私にとって重要なことは、肉体的な障害と心の闇に向き合った数年間があったからこそ、自分自身を守っていた“繭”を破ることができ、国の違いや痛みを超えて、ついに他の人を助ける道を見つけることができたということだ。


収入のある仕事を失った時は、絶望的な気持ちになった。慈悲深い労働者や納税者の親切な行為によって、政府からわずかな障害者年金を受け取ることはできたが、それだけで人間の尊厳を認められることはなかった。ただ生きるためだけに、“援助”をもらって暮らしていくという生活は、私にとっては屈辱的なものだった。しかし、私の生活はその援助に頼らざるをえなくなり、日常的な行動のほとんど大部分は、“目の見える人”のなすがままだった。竜巻の中で1枚の木の葉があてもなくクルクル回るように、私の心が休まる場所はなかった。この竜巻の嵐の夜の中で、私は問わなければならなかった。
「一体いつまで怒り、落ち込み、否定し、自分を哀れみ、恥と不名誉の中でもがいているのだ? なぜ“普通”でも“完全”な人間でもない個人として、もう二度と目の見える人たちと同じようには社会に貢献できないと認めなければいけないのか?」


その時突然、1946年の春、原爆後に避難した紅葉村から再び広島市に向かった時の光景が思い浮かんだ。私の魂の奥深くに眠っていたあの“命をくれた青い草”記憶がよみがえり、再び前へ進むのを助けてくれた。私は改めて思った。
「小さな草が生き残れるなら、私にもできるはず!」と。私は決して打ち負かされてはいないと思えるようになった。私はこの“障害”を、私自身と他の人々が人間の尊厳と誇りを持って意味のある人生を見つけるのを助けるという前向きな目的のための動機としてとらえようと決心した。新しい挑戦とともに、肉体的な“障害”に直面することができたのだ。


尊厳と気高さ、自分自身の誇り、そして人生の生きがいを持つことは、私達が生きていく上で必要なものだ。私は“目が見える”人達のように、再び社会の本流に戻って、かつてしてきたような社会貢献をしたかった。最大の希望は、なるべく他の人に頼らないことだ。まずは、盲導犬ミチと白状とともに社会の生産的なメンバーになることに集中しよう。


盲導犬ミチは、偉大な友となりパートナーとなった。お互いの気持ちや性格を知るのに3ヶ月ほどかかった。ハーネスを通じて、ミチがどこへ行こうとしているのかが分かるようになった。優しくしてもらいたい時には、大げさに尻尾を振りながら私の手を舐めに来る。私達の間に大きな信頼関係が生まれていた。


ミチのおかげで、生活は素晴らしいものに変わった。しかし、ミチがいつも私をうまく導けるとは限らなかった。公共の交通機関を使うのは簡単にできても、複雑な交差点の横断や初めての道や場所では、私がミチにどちらの方向に向かうかの指示を与えなければならない。自分がどこにいるのか分からないと、ミチに指示を与えることはできないのだ。私には“機械的な目”が必要だった。交通機関から障害物をなくし、ただ安全であるというだけでなく、視覚障害の人が移動するのを援助するための何らかの装置が必要だと実感していた。自分のいる場所を知り、行きたい場所へ行けたり、乗りたい乗り物を識別したり、障害物を探知して回避したり、緊急時には呼び出しができたりする何らかの装置・・・。

「今日、医者にいずれ目が見えなくなるだろうと言われた」 私は日記にそう書いた。そして、色あせた小さな父の写真を取り出した。私には、父の写真を見ることがどうしても必要だった。“丸に立ち葵”の家紋の入った着物を着ている父を見ると、私の心はたとえ嵐の中でも、自分が胤森家の長男であるということを思い出すことができた。


1987年、日米の文化コンサルタントとして、カリフォルニア農林省を代表して東京で仕事をしている時、私の運命は再び試された。何十年も前に受けた原爆の後遺症から、盲目になっていくことが発覚したのだ。


「私はもう二度とヒロシマの影から逃げることはできないのか?」 


私の中から再び原爆と家族をめちゃくちゃにしたアメリカ人に対する怒りがわき上がった。原爆孤児として受けた冷たい扱いに対する憎しみも再び浮上した。あの爆風が家族を連れ去り、今や私の視力、自立した生活、そして人間の尊厳までも奪おうとしている。まるでカメラのシャッターが下りたように、私の世界はすぐに真っ暗な深海に突き落とされ、針の穴ほどの光が暗闇を貫いているだけだった。


文化コンサルタントとしての2年間の契約も、日本側から一方的に破棄された。日本の文化では、盲目は若い時の罪によるものであり、盲人はもはや完全な人間ではなく、社会のお荷物であるとされていた。“社会のお荷物”だなんて、どうして耐えることができるだろうか。しかし、彼らの顔を立てる最良の方法だと言われ、同意せざるを得なかった。


私は自分の運命を悟り、帰国のため成田空港にいた。飛行機に乗る前、仲村先生に似た年配の女性を見かけ、思わず自分の目を拭った。その女性は、搭乗ゲートを通り抜けて旅立っていく人達を優しく見つめ、手を振りながらさようならを言っていた。その口元が、まるで「貴士くん」と言っているようだった。家に戻るだけの長いフライト。私は座席に深く座りながら、先ほどの女性の姿を振り払うことが出来ずにいた。ただただ過去の痛みを感じ、未来が真っ暗に思えた。小さくなっていく未来のビジョンを何とか維持しようと、私は何度も父の写真を見直していた。


これから一体どんなことが私の身にふりかかってくるのだろう。「私に何ができるというんだ!」私はこらえきれずに大声で叫んだ。私の世界は益々暗くなり、街路表示や消火栓、電信柱、新聞の自動販売機、ゴミ箱など、通りの至る所に“ドン”とぶつかった。路面の凸凹や歩道の縁にしょっちゅうつまずいた。そんな経験を毎日繰り返す中で、まごつきながらも手探りで暗闇のような迷路を通り抜けるコツをつかんでいった。


アメリカの生活スタイルからすると、今まで私は移動手段を自動車に頼っていた。しかし、視力が悪くなるにつれ、車の運転も断念しなければならなくなった。突然、私は人に依存する生活になり、たいていの場合、“目の見える”人の慈悲に頼らなければならなくなった。


私の最初の苦しみは、肉体的な障害を克服することだけではなく、障害のために差別されているということだった。通りでは何度も何度も至る所でつまずき、公共の交通機関は、自由に、そして安全に乗り物に乗ることさえできず、多くの当たり前の行動から締め出された。

愉快なお祭りムードが私達の間に広がれば広がるほど、サムとジェフはおもしろくないという態度を見せた。サムはイライラして、彼の顔には不満が出ていた。
「タネモリ、早くしろ。さっさと仕事の話をするのだ。」
星崎社長が部長に合図をし、部長は細かく印刷された資料5枚を用意した。その資料には彼らの5年間の計画が書かれていた。私にとっては大胆な計画であり、松の盆栽を作るような長期的な計画に見えた。
「タネモリ、何をぐずぐずしているのだ。その5年計画とは一体何だ。もっと詳しく説明しろ。金儲けのビジネスをしていることだけは絶対に忘れるなよ。」
サムは厳しく念を押した。


しばらく時間が経ち、部長と社長は少し2人で話し合っていた。そして改めて社長自身が言われた。
「胤森君、時間はどれだけかかってもいいから、君の社長にはっきりと伝えてくれないか。私達の5ヵ年計画は、今日の話し合いを第一歩として、これから先雪だるまを作るように大きくなっていくことを望んでいると。それにはお互いの完全な信用が必要ですね。」


「星崎社長!」突然サムが口を開けた。
「タネモリの説明によると、何が何だかよくわからないが、どこまであなた方日本人を信じていいのか。5年の計画より、今夜の計画はあるのですか?」
山下部長が口を開いた。
「胤森さん、あなたの社長は私達の約束を破られましたね。話は胤森さんと私を通してすべて行うということではなかったでしょうか。なぜサム社長はそんな無礼なことをするのですか?」


それまでの雰囲気が180度変わり、まるで世界全体が突然止まったように見えた。
「サム社長の発言は、強引に自分の考えを押し通すという、横柄なアメリカのビジネススタイルだと私達が考えていた通りでした。彼の態度で、星崎社長の心を裏切ることは絶対に許せないことですが、社長は多分、今あなたの顔を立てることを心にしているのだと思いますよ。」
私の胃はミキサー車の中でセメントをこねるようにグルグル回っているようだった。山下部長の心の痛みは、私にはどうすることもできなかった。サムを非難しても、彼には自分の行動の何が悪いのか全くわかっていない。
「サム、あなたがどんな人物かは想像していましたが、今夜のあなたは私の中に日本人の血が流れていることに気づかせてくれましたね。」


サムはテーブルをドンと激しく叩いた。
「タネモリ、今夜彼らと過ごしたすべての時間とお金のためにも、やりがいのある契約を結ぶことなく帰るつもりはないと日本側に伝えろ。もし今夜、彼らが何も買うことなく退席したら、誰がこの飲食代を支払うんだ。」
「私がすべての支払いをしましょう、問題ありません!」
「胤森君!」社長が部長に目配せした。
「あなたが謙遜する必要は何もありません。既にサム社長が要求していることが何なのか分かっていますよ。胤森君、あなたに負担はかけませんよ。彼が私達とどうしたいのか、正確に話してください。それでいいですね、部長。」
社長はさらに部下の矢田部さんと黒川さんにも話しかけ、同意を求めていた。彼らはただうなずいた。


私はサムの要求を部長に伝えた。あまりにも恥ずかしくて、ただ下を向いて答えを待つしかなかった。再び社長は複雑な表情で黙り込み、その後十分な話し合いの末、合意に達した。私はナイアガラの滝から救出されたような思いだった。その決定は、私の顔を立てて、コンテナ1台分の商品(およそ35,000ドル)を買うというサムの無理な要求に同意する契約だった。


それらの契約に必要な書類を作るために翌朝早い時間に出勤した時、サムが廊下をゆっくり歩いていた。彼はまだ怒りを発散させながら、欲求不満を表していた。
「タネモリ、もう1度日本側と話し合い、5ヵ年計画を再提出することを頼んでくれないか。改めて考え直すと。」
私は開いた口がふさがらなかった。人の心を踏みにじってまで“富”を手に入れようとしたサムは、自分自身の昨夜の行動を何1つ理解していない愚かな人物あると。
「サム、あいにくあなたが考えているほど、世の中甘くありませんよ。最後にあなたに言っておきたいのは、昨夜の行動は自分で墓穴を掘ったということです。」


激しい嵐の中、私は父親の声を聞いたかのように決断した。1990年9月24日、私は辞職願を持ってサムに対面した。そして謝罪の心とともに、星崎社長に手紙を送った。

カリフォルニアの夏のシーズン真っ只中、日本から彼らがやって来た。麦わら帽子を被っている星崎氏は明らかに社長とわかるほど威厳があり、3人の紳士が、彼から少し離れて歩いていた。
「社長、お待ちしておりました。私どもがカリフォルニアをご案内させて頂けて光栄です。皆様に喜んで頂けるよう、旅の日程を組んでおりますので、ご安心ください。さあ、行きましょう!」


私は、彼らを歩道の縁に止めていた極上の車へと案内した。私は慎重に社長側のドアを開け、その後部長のドアを開けた。VIPは後部座席に乗るのが日本の慣習だが、私は部下の矢田部さんと黒川さんに後ろに乗ってもらった。彼らにリラックスしてもらうために。
「いかがですか、重役席の乗り心地は?」
私は軽く話しかけた。車内に軽い笑いが起こり、緊張が少し解けたようだった。ホテルに着いてチェックインを終え、夕食のため6時に迎えに来ることを丁寧に告げて、私は彼らと別れた。荷物を整理したり身だしなみを整えるのに3時間もあれば大丈夫だろう。


オフィスに戻るや否や、サムは私を怒鳴りつけた。
「あの日本人はどこへ行った! 私はずっとここで彼らを待っていたんだ!」
サムはの理性はひどく乱れていて、歯の1本も折られてもおかしくないほどだった。
「今夜の夕食の前に仕事の話ができるというのに! 俺の時間を無駄にしているのがわかっているのか!」
「サムさん、もう1度言っておきますが、どんなことがあってもこの私に全てを任せてくださいね。約束通り! 絶対に口を挟んだりしないように! いいですね。」


夕食会をする料亭に着いた時、女将が温かい笑顔で迎えてくれ、個室へと案内してくれた。しかし、サムとジェフがまだ着いていなかった。お客様が来るのをここで待っているようにと念を押したにも関わらず。12分後、彼らは遅れた上、手ぶらで現れた。記念の品として贈り物を持ってくるよう頼んでいたのに。そして彼はうぬぼれたまま挨拶をした。
「はじめまして。私達と取引する準備は出来ていますか? は、は、は!」


彼は名刺も持ち合わせていなかった。私はサムとジェフの無礼に対して社長に謝罪し、社長もそれを受け入れてくれた。山下部長から改めてホテルでの花や果物、チーズ、ワイン等のもてなしへの感謝の言葉を聞いたサムは、彼の本心を出した。
「タネモリ、なぜこんなところに金を使ったのだ。まだ何1つビジネスの話は始まっていないのだぞ!」


「では、始めましょう!」
私はサムには答えず、歓迎会を始めた。まず社長に冷えたビールを注ぎながら、もう1度来て頂いたことへの感謝の気持ちを表した。その後、サム、部長に続いてジェフ、矢田部さん、黒川さんの順にビールを注いだ。私の代わりに部長が乾杯の音頭を取ってくれた。乾杯が終わると、社長は空のグラスを持ってきて私にビールを注いでくれた。私は有難くその一杯を飲み干し、尊敬の意味を込めて、そのグラスを社長に差し出した。彼は躊躇することなくそれを受け取り、私達の信頼関係は最高度に達した。盛大に催した歓迎会は気に入られ、感謝された。

次の4〜6週間は電話がジャンジャン鳴り、FAXはいつもガタガタと音を立てていた。サムとジェフは色々な交渉で、私達のオフィスは蜂の巣を突いたように活気に溢れていた。しかしその裏では、日本からの相談が私にやってくると、彼らは私に圧力をかけ、
「すべては利益だ! そんなに時間を与えずに早く交渉の締めくくりをするのだ!」と、焦っていた。


彼たちのビジネスのやり方は、まるで活け花のように一夜できれいな花を見るように利益を求めている。私は本当に愚かなやり方だと思っていた。活け花には“根”がない。根がなければあっという間に枯れてしまうというのに。それに対し、盆栽のようにいくら小さくても、また大きな黒松の木でも、根があるものは、時間と心からの世話を必要とする。アメリカと日本のビジネスのやり方は、“活け花と盆栽”のようだった。


私の活動についての噂が広まり、まるで私の花舞台のような状態になった。私は地域の集いや昼食会、ローカルラジオのトーク番組、ワークショップにゲストとして出演するなどして、多くの質問を受けた。また、専門家グループの会議では、日本の企業経営と貿易の内情について、専門的な意見を話したりした。チコ市の大学にも2度招待され、私は多くの肩書きを身につけ始めた。テレビインタビューでは、サムが「胤森氏から助言を受けて売り上げが3倍になった」「3ヶ月という短い期間で目標を達成した」と大声で叫んでいた。


それにしても私は、テレビの影響力が良くも悪くも非常に大きいことに驚いた。一瞬でそれまでできなかった広範囲の地域の人々の関心を向けさせることができた。私は“オズの魔法使い”のように崇められた。しかし一方で、保守的な考えの人からは“西洋に魔法をかけた”として、私の存在を認めないという意見も出た。それは、私が真珠湾攻撃、そして第二次世界大戦の苦い記憶を背負っているヒロシマの生き残りだと知ったからだった。


「先生、コーヒーブレイクにしましょうか?」
サムが、私の大好物のアイスクリームが上に乗ったブルーベリーパイとコーヒーを持ってきた。彼はニヤニヤと笑いながら、日本語と英語で書かれた日本からの手紙を私に渡した。ちらっと見ただけで、私達が接待をしなければならないことがすぐにわかった。日本からやって来られる星崎材木会社の星崎社長、山下部長と彼の部下2人の接待に向けて、私は準備を始めた。ホテルを予約し、花束やカリフォルニアの特産物、チーズのバスケット盛り合わせ、そして心からの歓迎を伝えるために選りすぐりのワインを用意した。