次の朝、私は校長に呼ばれた。
「ストーン博士と協議した後、ビル・シーザーはストレートAで卒業した。残念ながら君は私の道を選ばないのだね。」
こうして私はクビになった。妻は私に、少しは妥協し博士の言う通りにして教師の職に戻ってほしいと頼んだ。まず家族のこと、3人の子供達のことをもっと考えてほしいとせがまれた。


3人目も男の子を期待していた私は、女の子が生まれたと聞いて少しがっかりした。しかし、それは、すぐに1000倍の喜びに変わった。3番目の子供は、ヒロシマの原爆で死んだ私の幼い妹と“瓜二つ”だった。突然、新たな見方とエネルギーを得、自分のハートが充実感で満たされていくのを感じた。未来に何があろうとも、父親として彼女を見守っていきたい。


娘にはロクサン恵(めぐみ)と名付けた。日本では神様のお陰や恩恵“贈りもの”を受ける、という意味がある。実際、彼女は神様からの贈りものだった。その時、神が彼女を使って私を変えようとしていたことなどは知る由もなかったが、伝統的な日本文化の中で屈折させられた“偏屈な父親”だった私は、彼女の母親を改めて一人の女性としてまた認めることができるようになった。


原爆で亡くなった幼い妹の生まれかわりのような娘の誕生によって、新たな生活が始まった。新たな人生のスタート。娘が私の心に名誉を与えてくれたことで、私は真新しい父親になり、人間として生まれ変わった。
「ここはカリフォルニア、私たちがスタートしたところに、正に戻ってきた・・・!」
牧師を目指しての神学校生活と、インディアナ州の白人教会での奉仕活動のため、約20年ほど中西部での生活が続いた。私のアメリカでの人生の旅はカリフォルニアから始まり、1974年6月、こうして再び戻ってきたのだった。