次の4〜6週間は電話がジャンジャン鳴り、FAXはいつもガタガタと音を立てていた。サムとジェフは色々な交渉で、私達のオフィスは蜂の巣を突いたように活気に溢れていた。しかしその裏では、日本からの相談が私にやってくると、彼らは私に圧力をかけ、
「すべては利益だ! そんなに時間を与えずに早く交渉の締めくくりをするのだ!」と、焦っていた。


彼たちのビジネスのやり方は、まるで活け花のように一夜できれいな花を見るように利益を求めている。私は本当に愚かなやり方だと思っていた。活け花には“根”がない。根がなければあっという間に枯れてしまうというのに。それに対し、盆栽のようにいくら小さくても、また大きな黒松の木でも、根があるものは、時間と心からの世話を必要とする。アメリカと日本のビジネスのやり方は、“活け花と盆栽”のようだった。


私の活動についての噂が広まり、まるで私の花舞台のような状態になった。私は地域の集いや昼食会、ローカルラジオのトーク番組、ワークショップにゲストとして出演するなどして、多くの質問を受けた。また、専門家グループの会議では、日本の企業経営と貿易の内情について、専門的な意見を話したりした。チコ市の大学にも2度招待され、私は多くの肩書きを身につけ始めた。テレビインタビューでは、サムが「胤森氏から助言を受けて売り上げが3倍になった」「3ヶ月という短い期間で目標を達成した」と大声で叫んでいた。


それにしても私は、テレビの影響力が良くも悪くも非常に大きいことに驚いた。一瞬でそれまでできなかった広範囲の地域の人々の関心を向けさせることができた。私は“オズの魔法使い”のように崇められた。しかし一方で、保守的な考えの人からは“西洋に魔法をかけた”として、私の存在を認めないという意見も出た。それは、私が真珠湾攻撃、そして第二次世界大戦の苦い記憶を背負っているヒロシマの生き残りだと知ったからだった。


「先生、コーヒーブレイクにしましょうか?」
サムが、私の大好物のアイスクリームが上に乗ったブルーベリーパイとコーヒーを持ってきた。彼はニヤニヤと笑いながら、日本語と英語で書かれた日本からの手紙を私に渡した。ちらっと見ただけで、私達が接待をしなければならないことがすぐにわかった。日本からやって来られる星崎材木会社の星崎社長、山下部長と彼の部下2人の接待に向けて、私は準備を始めた。ホテルを予約し、花束やカリフォルニアの特産物、チーズのバスケット盛り合わせ、そして心からの歓迎を伝えるために選りすぐりのワインを用意した。