鶴と蝶の夢”が私の元に帰ってくる前の年の秋、親友のメルブ・アメリーンが七面鳥を丸ごと一羽持ってきて、テーブルの上にドンと置いた。そのとたんに七面鳥がバタバタ動き、私は思わずびっくりした。白人の彼はカリフォルニア七面鳥産業会の支配人で、店の常連客の1人だったが、3年の間に親友へと変わっていった。
「メルさん、これは一体どういうことなんですか?」
私はバタバタする七面鳥を指して、まくし立てた。
「まあまあ、トム、落ち着いて。」彼はいたずらっぽく微笑みながら言った。
「実は、君の知恵を借りたいんだよ。」
彼は日本人に合うような繊細な料理が七面鳥で作れるかどうか、私に尋ねた。おそらく、彼は七面鳥が神秘的な東洋の常食として、主要な産物にならないだろうかと気軽に考えたのだろう。私は日本の食卓に乗せるなら、丸ごとではなく、それが七面鳥だとわからないように転換しなければならないと分かっていた。私は自宅のキッチンで試行錯誤を繰り返した。


そしてある日、私はカリフォルニア七面鳥産業会の販売促進委員会の会員たちに、18種類の異なった料理を出した。アメリカと日本の双方で安定した取引をするために、展示会やテレビにも出演した。長い日本刀を振り回しながら、おきまりの手順で料理をするサムライシェフとして、私は何とも怪しい人になっていた。サンフランシスコの国際フードショーの一角で私が料理をしている時、私の神業を見て、カリフォルニア農林省国務長官が私を“ターキー・トム”を呼んだ。


このことがきっかけで、私はカリフォルニア農林省の公式な使者となり、環太平洋市場を担当することになった。七面鳥だけでなく、ワインやその他のカリフォルニアの農産物の販売促進や展示会をフィリピン、シンガポール、香港、そして日本の神戸と東京で開催した。私の仕事は、総料理長としてアジアの食品と料理にカリフォルニアの農産物をすべて適応させ、使えるようにすることだった。


サクラメントでの歓迎会で、着物姿の“ターキー・トム”は、新しい未知の領域である極東への船出を祝っていた。移動は、州政府が用意したユナイテッド航空のファーストクラスだった。また、フィリピンのセブ島の港から始まった船旅は、海軍学校の船“ゴールデン・ベア号”という舞踏場を備えたレストランがある船に乗り、船内には政府の高官や財界人と思われる人達も乗っていた。


全ての使命は成し遂げられ、フィリピン以外では平均500人の客を動員し、合計14の歓迎会をした。特に日本では8つもの歓迎会をすることができ、私は絶えず働き続けていた。その結果、私は日本にアメリカのビジネスを広めたと州から認められ、報奨金を授与されることになった。また、文化コンサルタントとして、日本の有名な会社と2年契約で東京に特別任務が決まった。カリフォルニア知事と一緒に撮った写真が日本で派手に記事になったことから、私と接触してくる人達もいた。私は一躍羨望の的になった。