「タカエおばちゃん。」私は不思議に思って、彼女に目をやった。
「どうして、おばあちゃんはそんなにお父さんに意地悪したのかな? お父さんは悪い人ではないのに。そうでしょ、おばちゃん?」
夕暮れとともに、私たち2人にも沈黙が訪れた。あたかも、ちょうどそこに憂鬱な姿の父がいるように。
「おばちゃん、お父さんのこと、もっと聞かせてくれる?」
私は、熱心に彼女の顔をのぞきこんで訊いた。
「お願い、聞かせて。僕の友達のお父さんは、天皇のために命を捧げてアメリカ人と戦う兵士だよ。どうしてお父さんは誇り高き日本兵士にならずに、家族と一緒に暮らしているの?」
私がこの質問をした時、彼女はしばらく黙っていたが、
「貴ちゃん。」と、私の名前を呼びながら、こう話してくれた。
「お父さんが悪いとは思わないわ。あなたのお父さんは、おばちゃんが知っている中では一番立派な人よ。お父さんを誇りに思いなさい。」


父は、日本政府で働き、富国強兵の目的のために身を捧げていた。軍隊の力が、すべての日本男児を支配していた。日本の軍隊に入らないことや、天皇に喜んで命を捧げないことは、若い男児にとって恥とされていた。胤森家は、国家と一心同体で生きてきた。日本国が生き残るためには、思想の共通性や社会的な調和は、どんな犠牲を払っても養わなければならなかった。閉鎖的な社会だったので、生き残るためには周りと調子を合わせて生活をする努力をしなければならなかった。村人たちの行動は、金魚鉢の中の金魚のように、透けて見えなくてはならなかった。西洋の「出る杭は打たれる」ということわざは、ちょうど日本の社会に当てはまる。村という共同体が、個人よりずっと重要だった。


日本社会は、徳川幕府時代に、士農工商(武士、農民、職人、商人)という4階級のピラミッドが組み立てられ、上位の階級に敬意を払うよう教えられた。中国文化の基本的な教訓である親孝行の精神が、社会秩序の維持において、絶対的なものになっていた。父の性格は、伝統的な日本の侍のようだった。日本男児は、社会的責任を負うものだ。階層的権力への服従は、社会の中での生活を保つ唯一の道だった。父は責任を負うことをためらっているようには決して見えなかったが、私にはなぜ父が積極的に兵役に加わらなかったのか、わからなかった。私の同級生も、なぜ父が彼らの父親のように戦いに行かないで家にいたのか、いつも気になっていた。私は、父や母から満足のいく説明や答えを訊くことさえできなかった。今だに、この矛盾はわからない。