胤森家が最初に喜ぶべき出来事は、母芳子が初めての子供を生んだ時のはずだった。母は興奮を隠せなかった。母は仏陀を信じて、「胤森家の後継ぎとなる男の子を授けてください」と願っていた。母の人生で最も重要な時だった。母は、胤森貞夫との結婚が“正しい”ことを祖母トメに証明したかったのだ。男の子を生むことは、名誉ある胤森家に法律上の結婚を認められ、胤森貞夫の妻、胤森芳子として戸籍に登録されることになるのだ。彼女の父親の社会的な罪を思い出させる泉芳子の名前も消える。これは祖母の栄トメにとっても、娘を売ったこという不運な行為から救われる方法だった。


願いが仏陀に届き、祝福とともに息子が授けられる日、陣痛の苦しみが大きくなると、近所の村人が立ち聞きしに集まった。父は、小さな部屋で行きつ戻りつ歩き回るので、畳がすり減りそうだった。父は、胤森家の後継ぎになる息子が生まれてくるのを期待していた。父の結婚は、両親の満足な祝福を受けるにはまだ完全ではなかった。父はわくわくしながら、まるで子供が新しいおもちゃを与えられるのを待つかのようだった。父の心臓は太鼓のように大きく打ち続けた。父は生まれる瞬間を見ようと、人差し指で障子に穴を開けた。障子の向こう側には、とても慎重な態度の助産婦の様子を感じることができた。赤ん坊を取り上げた30年の経験から、彼女の声は自信に満ち、頼もしく聞こえた。


私は、この話をしてくれたタカエおばちゃんの優しい声をどれほど覚えていることか。胤森家で起こっている出来事は、普通でなかったのだろうか? 父はなぜ仕事に行ってなかったのだろうか? 父は分別がなかったのだろうか? 


子供の誕生に立ち会うのは女性や助産婦の仕事だった。父の役目はすでに果たし、息子が生まれてくるのを待った。父は、高貴な人間であり、胤森として巨大な岩のように強く、感情に動かされずにじっとしているのが当然のことと思われていた。しかし、そこには父の人生と結婚のほとんどが賭けられていた。最初の子供が男の子だということは、両家に祝福をもたらし、痛ましい結婚の悪霊から解放されることだった。


突然、障子の向こう側から、生まれたての赤ん坊のちっちゃい泣き声が聞こえた。そして不気味な静けさの後、母が声を押し殺してすすり泣くのが聞こえた。助産婦が仕切りの後ろから現れ、父に許しを請うた。
「気を落とさないで下さい。精一杯尽くしましたが、何と申してよいのか・・・。」
父をがっかりさせるのを知りながら、彼女は深く頭を下げた。母のすすり泣きは悲しみに変わった。
「お願いです。頭を上げて下さい。」父は助産婦にそう促した。
「ありがとうございました。男の子が生まれなかったのは、あなたのせいではありません。あなたのご尽力に感謝します。」


「タカエおばちゃん。」私は聞いていいのか迷った。
「なぜ、助産婦さんがお父さんに謝らなければならなかったの? 助産婦さんのせいではないのに。」
おばちゃんは、まるで私の質問が聞こえなかったかのように話を続けた。