私たちが広島の燃え続ける町から紅葉村へ逃げた後、この話の悲劇と真実がわかった。口数が少ない父親の胤森貞夫は、尊敬すべき人だった。父は、自分が不利な状況になるとわかっている時でさえ、常に約束と責任を背負って生きてきた。父の決断は常に正しいことと人のためになることに基づいていた。「体面を保つ」ために、個人としての誠実さを決して曲げてはならないと、子供たちに強く言っていた。父はやさしく、常に一定の調子で話した。父の言葉はとても簡単明瞭だったので、父の言うことを誰も誤解する人はいなかった。私は、父の抑制された単調な声の調子が時には興奮して、感情的になり、活気を帯びることがあればと願った。父は非常に誇れる人間で、父の職場である日本政府では模範的だと見られていた。父の行いは、完全であり、常に真実を反映していたので、信頼されていた。


一方、母には常に謎めいたところがあった。タカエおばちゃんは、なぜ母が胤森家の戸籍に入っていないか、私にひとつだけ教えてくれた。父と結婚した時も、母はまだ旧姓のままだった。父方の親が彼らの結婚を認めなかったのか、あるいは、母方の親が祝福しなかったのか、またあるいはその両方だったのかはわからなかった。


祖母の写真から、母の過去の栄光を見ることができた。母も、社会的地位のある立派な家系に生まれ育った。母が父と結婚した時の名前は、泉芳子だった。不思議なことに、親の姓とは違っていた。彼女は戸籍上は中村の娘として登録されていた。しかし、彼女は中村ではなかった。母のたった一人の兄である私の叔父と祖母は、中村の姓を名乗っていた。中村家は、一時は村社会を尊重していた。しかし、人生の快楽を楽しむことが好きだった中村の祖父が、商売で料亭を開いた。それは、上等な料理と伝統的な日本旅館で、社会的なエリートがお客様として行き来し、美しい芸者にもてなされ、長く楽しい夜を過ごすところである。祖父は女性にだらしない遊び人で、非常に人目を引いた。ひどく酔っ払った姿はスッポンを思わせ、「他人の袖を振っていた」人物として注目されていた。祖父はいつも金を自分自身の楽しみに使い、貯めることはしなかった。人のお金で返済ができたため、信用はあった。祖母のトメは、祖父の分別のない行為に黙ってはいられなかった。彼は一日中戯れと快楽を求め続けて姿を消し、残された妻は、心配と恥ずかしさの両方を味わっていた。


ちょうど夜明けを知らせる鶏が鳴く前に、隣の村の溝から祖父の硬直した遺体が発見されたと、警察から知らせがあった。妻のトメは悲しいより恥ずかしかった。大きな借金を抱え、一文無しで溝に落ちて死んだことは、卑しい社会的な罪である。債務者の祖母トメは、和解するために商売を手放さなければならなかった。


泉と祖母中村の間で密約が取り交わされた。私の母は、約25km離れた高田村に住む子供のいない泉夫婦に養子に出された。お金の代わりに子供が“養子”になることは、当時の日本ではごく当たり前の習慣だった。娘と同じように第2子、第3子の男の子であっても、貧しい家族を支えるため、あるいは賭博などの借金をまかなうために、しばしば売られた。私の母がそのような運命にあったことがはっきりわかった。おそらくそれが祖母トメにとって唯一の手段だった。さらにトメにとっては、借金の代わりに栄二郎氏と結婚するための段取りだった。前の結婚の社会的な汚名を返上するために。母はそのことに関して一切口にすることはなく、誰もその出来事に触れなくなった。