家の姓は、出生の遺産であり、最も高価な宝石のようなものである。国家は生まれては崩壊し、帝国は消えていくが、姓の不変性はいつの時代も変わらない。


私は、徳川幕府時代の侍一族の先祖に学び、胤森家の立派な後継者である長男として育てられた。唯一あった父の古い写真から、父の着ていた着物についている胤森家の家紋を見て私は驚いた。それは徳川将軍の「丸に立ち葵」の家紋であった。


私の大好きだった叔母のタカエおばちゃんは、私がわずか7歳の時、胤森家に関わる最も強烈な思い出を話してくれた。最後におばちゃんに会ったのは、1945年、原爆投下の前の秋と春に父と一緒に訪れた時だった。おばちゃんは、瀬戸内海に浮かぶ宮島に住んでいた。日本人はこの宮島のことを神の島と呼び、日本の最も美しい場所のひとつとして注目してきた。


渡し舟で島に着き、私たちは、燃えるような赤い巨大な鳥居に迎えられた。港には、多くの観光客の記念写真を取るための背景が立っていた。観光客が餌をくれるのを期待しながら、お腹をすかせた鹿が通りを歩き回り、観光客を迎えていた。店の主人は伝統的な日本の着物で着飾り、絵のように美しい鮮やかな紅葉の寄木細工には、島の精神が多彩に織り込まれていた。観光客は天照大神に敬意を表し、祝福を祈るためにやってくる。そこには命の象徴としての巨大な黒松の木が堂々と立っていた。まるで母親が赤ん坊を育てるように、その姿は誇りに満ちていた。


ちょうど船から降りようとしている時、タカエおばちゃんをはじめ、4人の優しいおばさん達が私を歓迎してくれた。父が前に私を連れてきてくれた日のことを思い出した。おばちゃんは私を抱きしめ、
「貴ちゃん。元気で、誰にも負けない立派な人になるのよ。おばちゃんがね、その日が来るまでちゃんと見守ってあげるよ。」
と、いつものように話してくれた。


タカエおばちゃんは、とても小柄で、花のように可憐な美しさを持った人だった。おばちゃんは、私に力強さと安心感を与えてくれた。おばちゃんと手をつないで村の通り沿いの店を見ながらぶらぶら歩いていると、私は自分が大きくなったように感じた。私たちは港にしっかりと立っているあの巨大な火の色をした鳥居を見ながら水際に座った。鳥居は、繁栄と長寿の象徴だ。私はおばちゃんのお気に入りの甥であり、私も彼女の優しさに幸せを感じていた。私の人生の中で、愛している女性に抱かれるのはまれなことだった。


タカエおばちゃんは、私を抱きしめながら、母の出産の時の話など、家族の話をたくさんしてくれた。これらは、気持ちのいい話ではなかった。誰も母の家系や家族の背景について遠慮なく聞けず、そのことは禁止されていた。タカエおばちゃんだけが、母の人生に関する真実や私の出産時の出来事を教えてくれた。