どんな風に死ぬのか・・・ここまで追い詰められたのは初めてのことだった。まだ40歳半ばだというのに・・・。
「心臓発作で早死にするために、あの原爆から生き残ってここまで生きてきたのか?」
その夜、1945年9月3日に亡くなった父のことを思い出していた。父が“侍の7つの教え”を確実に私に伝えておくことがどれほど重要なことであったか。その教えは、暗闇の10年間を生き続ける心の道しるべとなって私を導いてくれた。そして父は、それを私の子供達に受け継がなければならないと教えていた。私はどれほどのことを子供達に残すことができるのか? 良い父親になろうとしたが、心の底ではまだヒロシマの亡霊が度々出没し、激しい怒りを持ったままの人間だった。子供達が知っている父親は、結果的に教会の牧師の職を追われたこと、そして人生を懸けた日本料理店の経営も船を沈めただけの結果となった、ということだけなのか。私は父との約束を全く果たしていない自分に気がつき、愕然とした。


私は彼らに何を残してやれるのだろうか? 私は彼らの生きる支えになっているだろうか? そんな自問自答の末、私はこの数十年間ずっと隠してきた真実の全てを彼らに伝えなければならないと感じた。たとえどんなに骨の折れることだとしても、自伝を書き上げ、遺言として彼らに残すことを決心したのだった。それは私の義務であり、約束だ!


次の日、妻が疲れ果てた表情で1人で見舞いに訪れた。店の経営が家計に大きな負担をもたらし、今日来たのは、私の健康状態と将来について話し合うためだと言った。
「ドクター・デイビスは、あなたの健康状態からいっても、店を閉めて何か他のよい仕事を見つけることが得策だと・・・。銀行家のニュースンにもその話をしましたよ。そしたら彼は経営の解決策も示してくれたわ。」
私に潜んでいた日本人の血が怒りで騒ぎ出し、知らぬ間に声が変わっていた。
「そんな簡単にあきらめられることじゃないんだ! ジョイス! 店は私の血であり命なんだ! 手放すなんて心にも思ったことはない。ましてや君の言いなりになるつもりはない。そうすれば私の信じるもののすべてを否定することになる。それに仕事をなくして、これから先どうやって生活していくんだ。店の将来が家族の将来にかかっているんだ。」


彼女の希望に従うことは、自殺も同然だった。私は嘲笑の的になるだろう。しかし、心の底では彼女の言うことも分かっていた。心臓発作で倒れたことで、店の営業を続けることは相当困難になっていた。どうしたら家族と私の名誉を調和させることができるのだろうか。日本人の血が流れていないジョイスには、“顔を立てる”ということがどういうことか分からない。もし姉が“中国人の妻”の言いなりになったことを知れば、彼女の笑いの種にされることは間違いない。私はジョイスに対する激しい怒りを抑えて言った。
「日本の女性は自分の立場をわきまえて、夫に従うということを理解できるだろうか。彼女たちは決してそのような態度や口調で、自分の夫を殺すような状況に追い込んだりはしない。死ぬまで支えとなり続けていく。」


結局、アメリカで生まれ育った中国人女性のジョイスが、日本人の名誉と面目に応じることはなく、私の心を理解することはできなかった。
ジョイス、中国人も日本人も東洋人として同じような感覚を持っていると思っていたが、大間違いだった! 二度と顔を見たくない、今すぐ出て行ってくれ!」


心臓発作から回復するまでの1年半を、私は“沈黙の年”と呼んだ。店を失った屈辱から立ち上がろうと奮闘した。そよ風を感じ、新鮮な空気を吸い、小鳥のさえずりを聞き、野の花の匂いを嗅ぐことなど、もう二度と出来ないと思っていた。まして明るい太陽を見ることなど・・・。