1985年8月5日、サンフランシスコのセントメアリー大聖堂で開催される「広島原爆40周年記念祭」での重要な講演者の1人として、私は復讐に燃える“仕返し”のスピーチをするために会場に向かっていた。白人の教会から追放されるという事件以来、私は“反戦のタネモリ”として名を知られるようになっていた。私は、床の下から湧き出してくる泥水のようなネガティブなエネルギーに突き動かされていた。白人のキリスト教会では“ジャップを我々の精神的指導者として認めるわけにはいかない”と教会を追い出された。あの日本人の牧師に私たちの魂を導く力、権力があるものかと・・・。世界人類は平等である、そしてその見本を示すべき存在であるのが私たち牧師同士ではなかったのか。教会の中でこんな人種差別があること自体、私にとっては信じられないことだった。


その後、唯一の生きる道だと一命をかけて開店した日本料理店の経営。2度の心臓発作に見舞われ、積み上げてきた栄光は崩れ去った。店は4年で破綻。結局この間、父の死に対する復讐は成功することはなかった。この怒りは私の心のどん底から、火山のように私の体を揺すぶっていた。


何が神様の愛だ。何が神様の恵みか。何が神の救いの道か。自分の心は津波のように荒れ狂う毎日だった。神を呪うというよりも、自分の愚かさに泣いても泣ききれない思いだった。そんな中で行われる「広島原爆40周年記念祭」のイベントは、私にとって待ちに待っていたといっても決して言い過ぎではなかった。これが私が求めていた唯一のチャンスだ。苦笑いしている自分の顔に気づいた時、何かひやっとした冷たい風が心の中を吹き抜けた。


アメリカ人は戦争によって平和を創ろうとしている」という考えが、私の心を捉えて離さなかった。彼らは、原爆で大量に人を殺したことがどれほど邪悪なことであったかさえ知らないのだ。
「私はアメリカ合衆国連邦国旗に忠誠を誓います。神の名の下に全ての人に自由と公正を・・・。疲れた貧しい空腹な人々を私に委ねてください・・・」
「何が全ての者に自由と公正を、だ。私のように苦しまなければ、本当の平和なんて理解できるものか!」
私は父を奪った報復と原爆に対する復讐を正当化するために、怒りとともに話をしようとしていた。それは私の悪でもない、罪でもない、ただ戦争が起こした結果だ。それしか考えられなかった。


ちょうど家を出ようとした時、妻のジョイスからこう言われた。
「あなたは自分の人生のすべての失敗を正当化するために広島を利用しようとしているんだわ。思い出してみてよ、あなたの牧師としての役目を。日本庭園のレストランだって、つぶしてしまったじゃない。ましてや父親として、子供たちに何一つ買ってやる力もなかったのよ。子供たちはさぞ友達の前で肩身の狭い学校生活だったことでしょう。あなたはそれすら気がついていなかったでしょう?世間の前では恥ずかしくて、いくら顔を隠しても恥ずかしさからは逃れられなかったのよ。あー、3人の子供たちは欲しがっているものも何ひとつ買ってやれなかったのですね・・・。まして今あなたは男として、何を誇りにしようとしているの?あなたがヒロシマ被爆者で、自分だけが苦しんでいるなんて、そんな考えは全く自分勝手だわ。あなたのために私たちもどんなに苦しんでいたか。私の父親が初めから私たちの結婚を許してくれていないのを忘れていないでしょう?私は、父親に背いてまであなたと結婚したのよ。私の父親は確かに見る目があったのかもしれないわ。父がなぜ反対したのか、今は嫌というほど思い知らされているのよ。だからこそ、どれだけ心の狭い思いをしても、今日まであなたを支えてやってきたのよ。それを少しでも分かってくれていたなら、今あなたがしていることに気がつくはずでしょう?」


彼女の言葉は火に油を注ぐようなものだった。そのことは復讐に満ちた私の心をさらに正当化させるものになった。
「中国系アメリカ人のお前に、ヒロシマの何がわかるというんだ。ヒロシマの悲しさ、恐怖、それに両親を奪われた残酷さの中で生きるだけが精一杯であったこの俺のことが分かってたまるか!」
あー、仲村先生のような人と結婚していたらこんな悲しい瞬間を体験しなくても・・・と心の中で自分自身を軽蔑し、慰めるしかなかった。あー、あの時、神学校で神様に祈った時、なぜ自分の心に正直にならなかったのか。日本人を妻にして下さいと・・・。馬鹿な自分を今責めたところで後の祭りだ。姉は正しかったのかもしれない。私は日本を去るべきではなかったのだ。これが自分の心に素直に生き抜くことを犠牲にした結果なのだ。