その災難は、サンフランシスコ空港へ迎えに行くのが遅れた瞬間から始まっていた。ベイブリッジが玉突き事故で通行止めだったのだ。これはどうすることも出来なかった。随分遅れて、車は空港へ到着した。ずっと待っていた姉の口が鬼のように開いた。
「こんな許しがたいことをして、恥ずかしくないのかい! 長い道のりを大金はたいて遥々やってきたというのに。さあ、これからどうしてもらえるんだろうね?」
いきなり非難する姉の言葉を、私はただ聞くことしかできなかった。しかし、もはや私は小さく若い頃の弟ではない。たとえ弟であっても、今は成人し、結婚し、家庭を持つ一人前の大人であり、社会人なのだ。しかし、そんなことは彼女にとっては意味のないことだった。“待たせた”という許しがたい罪を受け入れる寛大な心を、彼女は持ち合わせていなかった。


ポンコツの古いアメリカ車がせめてもの慰めだった。日本では体験することができないほどの壮大で単調な風景の中を、3時間近く走ってやっと家にたどり着いた。姉たちはずっと怒っていた。家に着くやいなや、子供達がそのような親の汚点を拭う“救世主”となった。彼らは精一杯腕を広げて、姉たちを迎えた。それを見て、一瞬私の目に温かい涙が溢れてきた。子供達にはこの日のために日本語での挨拶を教えていたが、いざとなると言葉が口から出てこなかった。
「貴ちゃん、この子らに日本語を教えていないのかい? もしかすると、中国語を教えているのかい?」
姉が私に向き直って尋ねた。子供達は、外に置いたままのスーツケースを部屋まで運ぶのを手伝った。姉たちは部屋まで歩く間、部屋を次から次へと覗き見し、ヒソヒソと話を始めた。彼女らの目を惹いたのは、太鼓橋を渡って鯉が泳ぐ池の周りを散策できるようにした日本庭園に来た時だった。自分達の住む日本の家と比較してどれほど広いかに気づいた時、大変な驚きがあったようだ。


ちょうどその時、妻のジョイスが教職から帰ってきた。姉たちに気づく前に、「ハニー!」と私に挨拶した。私はジョイスを紹介できることに誇りを感じ、彼女は簡単な日本語で挨拶した。
「はじめまして。どうぞよろしくお願いします。」
「では、そろそろお茶でもいただこうかしら。」姉はジョイスの挨拶には答えずに言った。
「そうね!」義理の妹ミヨもうなずいた。
「中国人の妻に何も教えていないのかい? どれだけ私たちを侮辱すれば気が済むんだ。お前は自分のことを日本男児だと呼びながら、中国人の妻にはこんなことをさせているのかい。」
佐津子はカンカンに怒っていた。私はジョイスが私の妻であるという理由で、私の姉妹を尊敬するべきだと強要されることから彼女を守らなければならないと感じた。しかしジョイスはお茶を差し出すどころか、
「ハニー、じゃ、お客さんをよろしくね。」と言って、先に夜の開店のための準備をしに店に行ってしまった。