牧師の職から追い出されてもなお、アメリカ人の心に触れたいという思いは変わらなかった。アメリカのことわざに、“人の心を動かす一番の早道はお腹を満足させることである”とある。そうだ、彼らのお腹を満足させればいいのだ!


1979年10月10日、夢と希望と大使を抱いて、ターロック市のレストラン街のある小さなL字型のショッピングセンターの一角に、「日本庭園」と名づけた店を開業した。その地域では、日本料理店は1店舗だけだった。奥深い日本の伝統や文化とともに、地域に住む人達の舌を豊かにし、日本とアメリカに橋を架けた。


活気のある通りの喧騒とは対照的に、足を踏み入れた途端、そこには魅惑的な庭園が広がっていた。客の1人1人を歓迎するかのように、鳥がさえずり、日本の琴や笛が1つに溶け合って、計り知れない雰囲気を醸し出しながら“さくらさくら”の美しい調べを奏でていた。鳥居をくぐると、そこには新しい世界が開けた。障子や上質な和紙で作られたついたて、鮮やかな紙の傘が灯りを柔らかく抑え、池には高価な11匹の鯉が泳ぎ、その真ん中に小川が流れていた。木製の水車もまた穏やかさを演出していた。そして最後に、小川に架けられた太鼓橋を渡るようになっていた。この地域や国中の人々、そして世界への“架け橋”としての象徴だった。何と壮大な夢だろう。


1980年8月のある朝、夢にも見たことないようなバラ色の光の波が窓から射し込み、私は目覚まし時計が鳴る寸前に起き上がっていた。驚いた妻が傍らに擦り寄ってきた。目をこすりながらしばらくベッドの端に座って、その光を見ていた。


店の開店から2年が経とうとしていた頃、突然、姉の佐津子と弟の貞義と彼の妻のミヨがあの紅葉村からやってくることになった。なぜ姉は今になって、わざわざ私に会いに来るのだろう? 佐津子がここ、田舎の町ターロックにやって来る! 日本料理店で2周年記念のお祝いを行うと知ったら、姉は何と言うだろう? 


佐津子は私がアメリカで実業家になっていると噂に聞いており、おそらく、日本での私の評判を回復し、遂に胤森家に名誉をもたらす最初で最後のチャンスだと思っているに違いない。しかし、私生活においても店の経営においても、すべてが順調ではなかった。まだ2年目にして、店はつぶれるかもしれない瀬戸際で揺れていたのだ。寄付するつもりもない利益を店から搾り取っていく人達がいることを実感した時、私は従業員を買い上げ、そのために負債に深くはまり込んでいた。既に離婚寸前で壊れそうな結婚生活は、精神的に大きなダメージになっていた。姉たちの訪問が、物質面と金銭面の両方で大きな負担になることはわかっていた。特に妻にとっては大きな重荷となっていた。姉はまだ私達の結婚を正式に認めてはいなかったし、その上、とても敬意を払って“おもてなし”が出来る状態ではなかった。