姉は21年以上も前に日本を去り、胤森家の名誉や尊敬を否定し、裏切った弟が、突然紅葉村へ帰ってくるということが信じられないようだった。彼女には、喜んで両手を広げて私を迎えることはできなかった。私は正月休みに姉を訪ねることを知らせたが、姉の激しい抵抗にあった。彼女は、私をもうすでに死んだ犬とみなしており、私が日本に戻ることはないと信じていた。少なくとも、家族の名誉を元に戻さない限りあり得ないと信じていたのだった。


1977年12月22日、私が生まれ故郷に別れを告げてから21年の歳月が過ぎていたが、頭の中で仲村先生の甘く優しい思い出を新たにして広島に戻った。荒涼とした冬の風景が紅葉村を支配していた。駅に着いた時、私を出迎える人は誰もいなかった。駅の外に立って辺りを見渡してみると、すっかり様子が変わっていた。古いもの新しいもの、見覚えのない施設などを見ながら、21年前に私が去ったときの光景を思い出そうとした。父の墓地を訪ねた後、姉に会っても大丈夫だと感じた。彼女は私を冷たく迎えるだろうが。ちょうどドアの前に着いたとき、姉は中から私の腕をぐっと引いて、
「早く中に入って。あなたが家に戻っているのをだれにも見られたくないのよ。」と言った。
「ただいま・・・。今帰ってきたよ。」と私は姉に小声で囁いた。姉は不満だった。私が紅葉村へ着いた途端、横柄な態度を取ってきた。
「さあ、よく見なさい。21年間も放っておいた貧しい自分の家だよ。お前が帰ってくると知って、まず最初に隣人が何と言ってきたか・・・。白っぽい色のスーツを着ただけで、冬のコートも持たず、何とも思わないのか? コート無しでは冬の正装とは言えないんだよ。しかもこれは夏服じゃないか。冬物のスーツを買うお金さえ持っていないのか?」


私は姉が守ってきた胤森家の名誉に対してはきちんと挨拶をしたいと思い、その瞬間を望んだ。その夜、一軒家の一室で何も隠すところもない小さな一部屋に置いた土産物の中から、彼女は自分の物を探していた。それらは、私にできる精一杯だった。牧師の職を失ったと伝えることは、どうしても出来なかった。
「何を持ってきたんだ? これがお前にとっての価値ある土産物だと言うのかい? 村人の前で、また恥をかかすつもりなのか?」彼女は何食わぬ顔のまま続けた。
アメリカからまだ家には帰ってきてほしくなかったんだよ。受け取る価値のある、尊敬される、そして皆からうらやましがられるような土産物を持って帰る日まで。」


軽蔑的な声がまだ耳に残っていた。彼女は一瞬何処かへ消えたが、直ぐに戻って来た。そしてその時、彼女が手にしていたのは、黒のトレンチコートだった。私の“カリフォルニアスタイル”のスーツを覆い、公の場で着るためのものだった。これ以上、恥をかかさない為の彼女の決断だった。姉は私に昔の友人を訪れる時は、あらかじめ彼女の許可を得てからでないと駄目だと、会うのを禁止した。適切な日本の社会習慣に従っていると、彼女が確信できたときだけ許された。


そうこうするうちに、一方では級友の1人の山口君が私が日本にいることを知り、1月7日に村田先生も呼んで同窓会をしようという、うれしい知らせを持って来てくれた。姉と私は大論争になったが、村田先生からの必死の説得によって言い争いはおさまり、1月7日までの滞在を、彼女は嫌々ながら同意した。彼女は同窓会に持っていくための作法にかなった贈り物など、必要なものをすべて用意した。


私はこの同窓会を心の底から熱望していた。そして一方では、仲村先生の行方を慎重に尋ねなければならなかった。しかし、彼女について知っているものは誰もいなかった。彼女の名誉を考えると、それ以上追及して聞くことはできなかった。しばらくして、私は、村田先生と級友に“さようなら”と一言告げ、午後遅く、高田村行きのバスに乗った。そこは仲村先生の生まれ故郷。そして誰に尋ねることもなく、何時間も彼女に会えることをただ願って、通りをさまよい歩き回った。


「貴士!」姉は、まだ朝の4時だというのに、私を起こしに来た。
「今日は約束の1月8日だよ。出来る限りお前を泊まらせてほしいと、村田先生の希望を尊重して今日まで待ってやったんだよ。もう、社会的な体面を保つのは終ったんだ、埃1つ立てずにさっさと出て行っておくれ。さあ、これは広島行きの汽車の切符だよ。」


次の4週間、私は旅をした。広島駅で降り、天満川の砂浜を歩き、神戸へ戻り、京都を通ってその後東京まで、見つけなければならなかった答えを探しながら・・・。私は考えた。まず、日本人として、そして市民権を持ったアメリカ人として。そして、人種によって私にレッテルを貼ってくる人たちに共感するのは終わりにした。私は多民族、多文化からなる、国際的な家族の一員としての自分自身に気づき始めた。


6週間に及ぶ母国の旅の後に、これまで使ってなかった、もう一つの虫眼鏡を通して世界を観ていく必要があると知った。答えを満たすのは、日本でもアメリカでもない。家族のいるカリフォルニアへ戻ることを決心したものの、心の中には仲村先生を見つけられなかった空しさが少し残った。