かつて誇り高きキリスト教の牧師で、命と魂を白人に仕えることに捧げた者が、今では仕事を下さいとアメリカ人に懇願しているのだ。どんな仕事でもかまわない。そうすれば3人の子供達を食べさせることができるかもしれない。私は一足の靴を底に穴が開くほど履きつぶしていた。あまりの悔しさに、唇をかんで泣いた。


私はビジネスに関する技術を何も持っていなかったが、とうとう洗車を管理する、“クリーン・マシーン”という会社での仕事を偶然発見した。
「そんなによくはないけど、まあ悪くもない。」と自分自身に言い聞かせた。
「牧師のように、また何かをきれいにする仕事じゃないか。」
高貴で尊敬すべき仕事であるということ以外何も考えられなかった。後々まで知らなかったのだが、オーナーは私のことを、仕事の取引上少なくとも正直な人間だと思っていたそうだ。彼は私が信用できる人間で、私の誠実さは完全に消えることはないものだとわかっていたのだ。


この新しい仕事が私にとって好都合だったのは、仕事の施設が家からわずか1ブロックしか離れていなかったという点だった。子供達が自宅の庭にある消火栓の上に座って、私が歩いて帰ってくるのを見つけては歓迎してくれたものだった。マネージャーとして、職場で子どもに手伝ってもらうという特別な恩恵もあり、子供が自分の近くにいることへの満足感を魂で感じていた。それは私が生まれて初めて感じたものだった。私は自分の時間とエネルギーを教会の人々のために使うのではなく、子供達に捧げているのだということに気づいた。これは私にとって偉大な学びだった。私は新しいおもちゃを手にした子供のようであり、何とか妻に“安堵”の感覚を与えられた。ほんのわずかな間ではあったが・・・。私は自分が牧師であったということをほとんど忘れかけていた。子供達と過ごすことを楽しみ、新しく見出した家族との生活を楽しんでいた。そして生まれて初めて家族を経済的に支えることができるようになっていた。


ある“グランドオープニング”のお祭りが盛り上がっている時、洗車の特別割引を行っていた。車は列を作って並び、割引券が集められた。そのとき大きなクライスラーが正道を踏み外して入ってきた。私を教会から解雇した牧師、ゴードン・スワンソン氏が車の窓を開け、割引券を旗のようにひらひらさせていたのだ。私は礼儀正しく近づき、一礼して開いている窓から手を差し伸べた。
「お目にかかれてうれしいです、スワンソンさん。今日は良いお天気ですね。ありがとうございます。本日はお越しくださいまして、大変光栄に思います。もう過去の怒りなど持ち続けるのはやめましょう。」
彼の腕は、葉のついていない枝のように空中に突き出されたままだった。私はトイレへ駆け込んで急いでドアに鍵をかけ、ドアをドンドンと殴りつけた。指を喉の奥までつっこみ、もう吐くものがなく、乾いた嗚咽がでるまで吐き続けた。そしてまたトイレの水を流した。そうやって何度も何度も嘆き悲しみながら水を流し続けた。


この出来事は消すことのできない影響を私に残した。それから数ヶ月間、私は深くふさぎ込んでしまった。どういうわけか腕組みをした牧師の像を振りはらうことができなかった。また妻や、とりわけ子供たちに影響を及ぼす状況を無視することもできなかった。