色とりどりの木の葉が姿を消し、景色は雪に覆われた氷の大地へと様変わりした。キャンパスにはどっしりした樫の木が幽霊のように立っていた。私の心も凍っていた。使えるお金は一銭もなく、ホットチョコレート1杯さえ飲むことは出来なかった。まるで“みにくいアヒルの子”のような気持ちだった。


それは1月10日のことだった。私は教務課職員で“営業部部長”という肩書きも持つ人物に呼び出されていた。
「ターネモリー
私は中へ招き入れられた。机の向こうに座っていたのは、あの教務課の列で私の全財産を受け取った相手だった。もう大分昔のことのように思われた。彼は私に冷たい金属の折りたたみ椅子を指差した。オーク材の使い古された机が私達を隔てていた。それは2人の人間の違い、2人の力の差を如実に表していた。彼は素早く台帳を指差した。
「もし、この学校に残りたければ、後期分の学費と部屋代と食費を払ってもらわなければならない。期限は先週だったのだが。」
私は唖然とした。初日に支払った苦労して稼いだ300ドルは、1年分ではなく単に前期分に過ぎなかったことを私はこの日初めて知った。私は完全に混乱し、苦境に立たされ当惑していた。どうしてよいのか、全くわからなかった。
「僕はもうお金を持っていないのです。また来年の夏にフレズノに戻ります。もう一度、長時間一生懸命に働きます。学費を稼いで、来年の9月に戻ってきます。それでいいですか?」
「だめだ!分かっていないのだね?」
彼は短気だった。上体を動かし、私の方へ少し近寄ってきた。そして、冷淡に言い放った。
「手付金を払ってもらう必要がある。もしくは、2月1日にまでに経済的に君を援助する人物を見つけなさい。それができなければ、君は退学だ。3週間後に返事をもらおう。」

 
私の仕事探しは、まるでサーカスでのサルの演技のようだった。私に対する人々の態度は避けられないものだった。店先の掃除、レストランの食器洗い、トイレ掃除、またはゴミ収集まで、ただひたすらに仕事を求めたが、私の願いは電話の録音メッセージの様に一方通行だった。私が通りかかると小さな男の子が母親の手を引っ張って注意を引く、などといった光景はもはや珍しくもなんともなかった。母親が子供を黙らせても、やじは飛んできた。
「わしらは中国語を話さんと言っただろう!」
ある店主が怒鳴った。仕事探しは続いていた。私は隣の建物に行って、“ウェーバー印刷店”の主人に仕事をくれるよう頼んだ。
「また来たのかね。」主人は従業員へ向き直った。“ケリーのママとパパの食料品店”の主人が鋭く私に言い放った。
「よく聞け!俺は日本人のことをよく知っている。お前らは皆、真珠湾攻撃の時のように油断がならん。」
私は戦争中のことで責められなければならないのか?あの時たったの4才だったのに。
「英語がちゃんと話せるようになってから来なさい。」
ファーガソン金物店の支配人が言った。彼も仕事はないと言っていた。クラスメートのラッセルは雇ってもらえたのに。ラッセルはたまたま白人だったから、私が断られた直後に雇われたのだった。


私は皆がたむろする“ジェーク・カフェ”の前を通りかかった。中をのぞいてみると、何人かの学生が笑いながら飲食を楽しんでいた。いい香りがした。
「ああ…ホット・チョコレートだ…」
私には凍った心を溶かしてくれるものが必要だった。靴やブーツ、冬物のコートや毛皮の手袋を買う金が必要だった。それがあれば、この冷たく不親切な扱いにもっと耐えられるはずだった。冷え切った足でとぼとぼと歩きながら、私はキャンパスに帰る前にもう一軒寄ってみることにした。バン、バン、バン。私は何度もドアを叩いて、大きな声で叫んだ。
「お願いします。中に入れてください。仕事を探しているのです!」
ドアは私が行き着く少し前に閉じられたようであった。閉店の看板がまだ揺れていた。
「ダメだ!」
私は嘆きと不信感と怒りを露わにして、凍った歩道へと歩き出した。