1960年9月4日、私はついに、ミネソタ州オワトナの田舎町にあるピルズベリー・バプテスト・バイブル・カレッジの正門前に立った。キャンパスはミネアポリスからちょうど70マイル南へ下ったところにあった。他の学生が全て白人の中、私はただ1人の日本人だった。在校生や教授、そして地域の住民たちの私に対する反応はおかしかった。彼らはまるで、本物の日本人を一度も見たことがないかのようであった。彼らが私を見る目はとても冷たかった。誰も異教徒が改宗できるとは思っておらず、ましてや私を神学生として見てはくれなかった。私の熱意と信仰が試された。


翌朝、廊下の長い列に長時間並んだ後、やっと私の番が来た。そして、不機嫌な声にまごついた。
「名前は?」
長机に座っている男が私を見もせずにこう尋ねた。私はよく父に、人に話をする時は相手の目を見て話しなさいと何度も言われてきた。彼は今まであまりにたくさんの生徒に応対しすぎたので目が疲れたのだろうと、私は良い風に解釈してやることにした。
「いくら払うのかね?」
その男は苛立った様子で尋ねた。彼の言った言葉の意味を考えている間、私は頭の回転が遅いかボーっとしているかのどちらかに見られていたのだろう。 私の目を見て話してくれたならもっと簡単に理解できただろうに。
「金だよ!」
男は大きな声をあげた。
「あ、お、お金ですね。こ、これです。」
私は男に微笑みかけ、握りしめていたのでしわくちゃになった300ドルを渡した。男は視線を上げることさえせずに、何枚かのコインをおつりとしてよこした。おつりを手に、私はこの1年に必要な学費と部屋代、食費を全て支払えたことに誇りを感じていた。
「どうです、シュタイナーご夫妻、見てください。おつりのコインまであるのですよ。僕のことは心配要りませんよ。」
私は心の中でそうつぶやいた。


私は図書館や自分の部屋で日本語辞書を片手に勉強に没頭した。長時間一生懸命に勉強すればするほど、遅れていくような気がした。欲求不満と怒りとで、何度も壁に頭を打ち付けた。自分ではどうしようもできない勉学の遅れのせいで教授は次々に罰点を与え、私を罰した。昼間だけでは時間が足りず、夜中にもわずかに外から入り込んでくる灯りの下で勉強したが、目が真っ赤に充血しただけだった。何とかもう少し光を取り込みたいと、窓枠に鏡を吊るしてみたが、監視の目に捕まり、風紀委員会へ引きずり出された。そして校則違反として、25点もの罰点を言い渡された。トイレにこもって勉強していた時も、同じように捕まった。なぜ余分に勉強し、神への仕事への準備をするのに罰を受けなければならないのか、私には全く訳が分からなかった。