1月7日、私は佐津子との約束を果たし、夜明け前の一番列車で紅葉村を去った。奇跡的にも私は、広島から1時間ほどの呉市で、家族経営の小さな食堂で仕事を見つけることが出来た。呉市は戦時中、重要な海軍の造船所があったところで、今はアメリカ海軍兵に協力している。彼らは大金持ちのようだった。私は通訳をしてもらって、どこからそんな大金を得たのか、ある海軍兵に尋ねた。彼らは笑いながら、口をそろえてこう教えてくれた。
アメリカには、金のなる木があるのさ。儲けるコツは、適格な木を探し出すことさ。」
食堂での私の仕事では、到底そのような財産を得る保障はなかった。床を掃き、野菜の皮むきをし、皿を洗うことによって得る給料は1日50円ぽっちだった。住む部屋と食事が与えられたのは助かったが、全く昇進の可能性がなかった。どんなに働いても、給料が上がらない。それには気が滅入った。


私の1日の楽しみと言えば、郵便屋さんがやってくることだった。彼は親切で大柄なおじさんで、七福神の恵比寿さんを思い起こさせる風貌だった。そのおじさんは、顔は大きく、目や耳も大きく、笑う時は豪快な笑顔を見せた。私宛ての郵便はなかったが、おじさんが来ることは私にとっていつも楽しみであり、喜びであった。おじさんの笑顔は、まるで熊にとってのハチミツのように、いつも私の心を潤してくれた。


ある日驚いたことに、おじさんが大きな笑顔を見せながら、私に1通の手紙を渡してくれた。
「封を切って中を見てみないのかい?」
と、面白そうに笑いながら彼は言った。その手紙は佐津子から転送されてきたもので、速達のしるしがあった。差出人の住所を見ると、あの役人から出されたものだと分かった。おじさんに説得されて、私は手紙を開けて読んでみた。
「君は人生を投げ出すにはまだ早すぎる。もし君のために何かできることがあれば、私は喜んで手助けする。もう1回だけ私の言うことを聞いてくれ。覚えておくんだ、長い旅路の最初の一歩が最も大事だと言うことを。胤森君、君が人生の一大決心をする前に、必ず私の所に来てくれ。」


「君は人生を投げ出すにはまだ早すぎる・・・」この言葉を読んだ時、私は自殺を図って三途の川を渡りかけた時に言われたことを思い出した。
「まだお前の番ではない・・・」あの時、そう言われて天国の入口からこの世に戻されたのだ。(まさか? もしかしたら今の自分には想像もつかない生きる道があるのかもしれない。)私は彼に徐々に心を開き、優しくなっていた。実は私はこっそりと父の墓へ行き、助言を求めていた。最も恐れていたことは、自殺に失敗したことが明るみに出る可能性があることによって、日本を去ってしまいたいという気持ちが膨らむことだった。しかし、彼の手紙は私の心の奥を突いたようだった。私は広島市役所に彼を訪ねに行かざるを得なかった。
「胤森君、よかった、よかった! 君が来てくれてうれしいよ。」
彼は叫びながら言った。ほんの少しの説得で、私はついにアメリカ移民申請書にサインした。申請書が正式に承認されるまで数ヶ月かかるとのことで、私は申請の最終段階のために紅葉村に戻るよう勧められた。私はこのアメリカ行きのことを誰にも打ち明けないでおこうと決めていた。