その年の冬は、今まで経験した中で一番の寒い冬だった。六甲山から吹き降ろす有名な六甲おろしは刺すように冷たく、隙間風の入る店で暖まることはできなかった。凍えた足や手を動かすことはとてもつらいことだった。私が毎朝5時に起きることができたのは、ただ仲村先生と約束したあの革靴がほしいという気持ちがあったからだった。


毎朝店の拭き掃除をするのに、私は凍るような水の中に手を入れなければならなかった。主人に何度も風呂の残り湯を使わせてほしいと頼んだが、答えはいつも同じだった。
「胤森、お前に使わせる湯はない。」
厳しく冷え込んだ朝、あかぎれで膨れ上がった手を、氷のように冷たいバケツの中に入れるのは勇気のいることだった。パリパリになっている皮膚を擦りながら、私は涙を抑えることができなかった。
「胤森さん。」
奥さんの柔らかい声に驚いた。彼女は「しーっ」と、唇に指を当てて注意した。
「寒すぎて眠れなかったのです。さあ、このお湯を使って下さい。」
奥さんは絶対大丈夫だからと言い張って、風呂の残り湯を手渡してくれた。そして彼女は夫を許してくれるよう私に頼み、丁寧に謝った。


奥さんは主人が現れる前に、私の手に薬を塗ってくれた。温かい残り湯はとても心地よく、手に塗ってもらった軟膏は痛みを和らげ、私の心は溶け始めた。私の手があかぎれで痛かったように、奥さんの手もまた同じだったと知って驚いた。こうして2週間、奥さんは私に残り湯を渡し、手に軟膏を塗るために早起きしてくれた。奥さんははにかみながらも私が奥さんに軟膏を塗ってあげるのを認めてくれた。私は、何があっても奥さんを守ると心に誓った。


数週間後、私の手はほとんど完全に治った。ある朝、奥さんがエプロンを脇に置いて、私の手を注意深く乾かしている時、突然廊下を勢いよく駆け下りてくる足音が聞こえた。私がちょうど振り向いた時、主人が爆発して向こうから飛んできて、叫んだ。
「貴様! よくも侮辱してくれたな。」
「違います。旦那様の思い違いです。奥さんを傷つけないで下さい。奥さんに罪はありません。」
主人は私の顔を何度も叩いたが、私は挑戦的にも立ち向かって奥さんの盾になった。この件で、私の信用はなくなったが、私は引き下がらなかった。唯一の気がかりは奥さんの安全だった。奥さんは夫にやめるように頼み、私を脇へ押しやって、彼女の部屋へ走っていった。彼女はその後2日間姿を見せなかった。


次の日曜日、主人は自分の母親の家に娘を連れて出かけていった。奥さんはどこにいるのだろうと思い、優しく呼びながら探していると、かすかな声が小さな物置から聞こえた。そこにはむき出しの冷たい床の上で震えている奥さんがいた。彼女の顔は叩かれ、傷つけられていた。私の中に怒りがこみ上げてきて涙が溢れてきた。私は痛々しい奥さんの手を取って、ゆっくりと彼女の部屋へ連れて行った。その部屋は、彼女が結婚する際に親からもらった小さな鏡台の他には何もなく、まるで刑務所の独房のようだった。押入れにはわずかな服がかかっているだけだった。
「お腹の中の赤ん坊は大丈夫ですか。」
私が尋ねると、奥さんはうなずいた。私はタオルをお湯で濡らすために台所に走った。彼女の腫れた顔を拭いながら、私の手は震えていた。それから熱いお茶を持ってきて、私の腕の中に抱き寄せ、飲ませてあげた。彼女の顔はとても傷つけられ、彼女の魂もまた痛めつけられていた。私は人妻だと用心しながらも、愛おしさで胸がいっぱいになった。


お茶を飲み終えた後、私は優しく彼女を布団に横たえ、毛布をかけた。
「胤森さん、行かないで。お願い、行かないで。」
彼女は私を引き寄せ、頭を胸に埋めながら泣き出した。彼女の興奮が津波のように私に打ち寄せた。どれだけ彼女を慰めたかったことか。彼女がすすり泣きながら自分の悲しい話をし始めた時、私は彼女の髪を撫でていた。絹のように細い黒髪が彼女の傷ついた顔から滑り落ちた。
「抱いて、しっかりと抱いて・・・。」
彼女は私の胸に顔を埋めて泣き出した。私は、彼女の期待と欲求を受け止めるだけの十分な強さを持っているかどうか分からなかった。彼女は息を荒げていた。私はされるがままにしていた。私が彼女を抱くのではなく・・・。それが私に出来る精一杯のことのように思えた。