卒業式の後、教頭先生が級友の賢一と私に仕事を見つけてきた。それは神戸での丁稚奉公だった。拘置所のようだった紅葉村から離れることで、私は初め意気揚々としていた。一方で、仲村先生に別れを告げるのは大きな悲しみだった。


私達は神戸に旅立つ前の最後の日、誰にじろじろ見られることもなく、手をつないでぶらぶら歩きながらお店をのぞいたりして過ごした。そしてある店のショーケースに入っている一足の黒光りする靴の前で立ち止まった。非常に硬い皮で出来ていて、歩くごとにキュッキュッと音がした。作りのいいものだったため、とても高価だった。その靴を身につけるということは成功をシンボルだった。
「先生、次に会うときにはあの靴を履いているからね。」
私は振り向いて、先生にそう誓った。
「僕のこと、思っていてくれますか?」
私は先生の表情を伺いながら尋ねた。先生は優しく微笑みながら私の手を取り、私の顔を見ながらこう言った。
「もちろん思っているわ。でも、あなたは扉を開けて鳥のように自由に飛び立つことができるのよ。私の魂がいつもあなたと一緒にいることを忘れないでね。あなたは一人ではないのよ。」


佐津子との別れ際は対照的だった。彼女は氷のような冷たい声で突き放すように言った。
「貴士、これ以上私を辱めることだけはしないで。立派な社会人になるまで帰ってくるんじゃないよ。」


賢一と私が列車で三宮駅に着くと、駅のホームに下田さんと彼の部下が出迎えに来ていた。下田さんは体格が大きく、髪は白髪交じりだった。50歳くらいに見えた。彼が優しく微笑んで挨拶してくれたことで、私たちの不安は和らいだ。私達は新しい雇い主に礼儀正しい挨拶をしようと、地面に頭がつくかと思うほど深くお辞儀をした。


私たちが会社の灘支店に移動する間、下田さんは私たちに、自分は春山教頭の後輩で彼にはいくつかの借りがあるということを教えた。これは不愉快な話だった。親なし子の私を雇ったのは、昔お世話になった先輩である教頭に対しての彼の義務だったのだ。


支店に着くと、従業員たちが社交辞令の歓迎会を用意していた。支店長の渡瀬さんは、背が低く、それを補うように従業員たちに横柄な態度を取っていた。私はすぐに彼が嫌いになった。顔を背けると、歓迎会の飲食物を用意している美しく若い女性が目に入った。私は彼女の純潔で優美な雰囲気に胸を高鳴らせ、衝動的に彼女に近寄っていった。その時、渡瀬さんが私の後ろから、厨房に入って酒をもっと持ってくるようにと彼女に大声で命令した。その日の夕方、その素晴らしい女性は彼の妻だとわかった。


私は彼女の手伝いをしようと、厨房の中に入っていく彼女について行こうとした。すると渡瀬さんが私の後を追ってきて叫んだ。
「胤森、そこで止まれ!」
聞こえなかったふりをして、私は厨房の中へ入って行った。渡瀬夫人はとまどっていたが、私の申し出を快く思ってくれていた。


私たちがさらに食べ物を運び続けていた時、渡瀬さんは先ほどの命令が聞こえていなかったのか、私に追求してきた。下田さんが素早く間に入って仲裁した。
「あなたの奥さんが手助けを必要としていたのを感じて自ら進んで手伝った。そんな気のきく若者を見るのは何とも気持ちのいいことではないか。」
下田さんは尊敬すべき態度で、私に酒をついでくれた。渡瀬さんは黙ったままだったが、彼の苛立ちは誰の目にも明らかだった。