村田先生と私にとって、最終的な段階となった。彼は私の今のメッセージでは大会に勝てないと確信していた。しかし、私の出場を取り消そうとはしなかった。その日がやってきて、村田先生と汽車で広島市に向かった。広島市に近づくと、あの日の記憶が甦ってきた。人の焼け焦げたにおい、死にゆく人々の悲痛な叫び・・・。しかし、1946年の春に見た時からは、市の様子が大きく変わっていた。


大会自体は、あっけなく終わってしまった。私は広島西地区の最初の挑戦で負けてしまった。あと3分だった。私がメッセージの一番大事な箇所を話す前に、時間が終了してしまったのだ。私は自分のしたことによって押しつぶされた。どういうわけで私はテンポを間違ったのだろう。何度も何度も練習したのに。


村田先生との帰りの汽車の中は、とても居心地が悪かった。私は彼に顔を向けることができなかった。私達は2、3度言葉を交わした。大会に出場できる機会を与えてくれた先生に感謝し、自分の失敗も謝った。私は座席に座り、自分自身の殻に深く身を沈めた。汽車を降りる前、先生は勇気を奮い起こし、震える声で言った。
「胤森、何も恥じることはない。すべてが終わった今、お前は初めて大田中学から大会に出場したんだ。招待された者以外、誰もいないんだぞ。お前は大田中学に名誉を与えてくれたんだ。そして私も教師として元気付けられた。私はお前に感謝しなければならない。」
それでも私は彼が失望しているのを知っていた。私は情けなくも彼を失望させてしまったのだ。


次の週末、再び仲村先生と会った。私は自分の言いたいことを伝えるのに失敗したことを伝えた。彼女はすぐに私の言葉をさえぎった。
「それはとても意味があることよ。大会のために努力したことが一番大切なの。人生で最も大事なことは、あなた自身の魂の勝利者になることよ。」
これを聞いて、私は衝撃を受けとまどった。
「あなたの見方を話すための時間を持つことができたとしたら、何が起こったというの。あなたのメッセージはきっと賞賛されたでしょう。何よりも村田先生の心にまで届いたでしょう。村田先生の立場を考えてみて。弁論クラブの顧問として、あなたの特別な指導者として恥をかくことになったでしょう。あなたが負けたことで、あなたの心を曲げることなく、村田先生の誇りを守ったのよ。本当に大事なことは成し遂げられたのよ。」
先生の哀れみのある理解は、私にとって太陽の光のようだった。小さな穴から暗い屋根裏部屋に新たな光が差し込み、次第に私の心は彼女の理解とともに開いていった。


長く待った卒業がついにやってきた。私は進学の夢をあきらめなければならなかったが、すべての思い出が私の心に深く詰め込まれた。私を待っている先に何が待っているのか。新しい幕が開かれるのをしきりに望んでいた。驚いたことに、卒業式の式辞で、校長先生が私について簡単に話してくれた。私が村田先生に信頼を置き、弁論大会に向けて努力するようになってから、私の人生が変わっていったと。