中学校での生活も残すところ半年となり、高校に進学する多くの生徒たちにとっては、自分の未来を決めるための厳しい時期となった。私はどうしても高校に進学したかったが、親なし子の私ができるはずもなかった。私は人生の現実を受け止め、進学をあきらめた。これからどうしたらいいのか暗い波の中でもがいていた頃、仲村先生が私と村田先生に会うために学校にやってきた。3月の第1週に広島市で開催される中国地方の弁論大会のことについて、詳しいことを確認するためだった。
「先生!」
弁論クラブで彼女が立ち止まった時、私は叫んだ。その甲高い声は、クラブ全体をびっくりさせた。村田先生が形式的に彼女を紹介した。彼女は私の耳元で、「貴士くん」と囁いた。私は自分が特別なんだと心の中で確信した。


先生と弁論クラブを離れた後、私は学校の裏山にある私だけの秘密の隠れ家に先生を招待した。それは空を仰ぐような大きな松の木のあるところだった。私は放課後、よくここにやってきてはこの木に自分の心の内を聞いてもらったり、助言を求めたりしていた。この大木は、私の悲しみを聞いてくれ、私の成功をたたえ、時にはただ静かに私を受け止めてくれた。この木は、私のためにあるといつも感じていた。先生は、この大いなる自然との会話に感動していた。先生は私を馬鹿にするどころか、彼女自身もこの木に神聖なものを感じ取っていた。先生に心の秘密をすべて打ち明けた時、彼女は静かに私を腕に抱いてくれた。
「先生、ありがとう。さようなら。」
彼女が私たちの学校を去った午後には、秋のにおいがいっぱいだった。


弁論大会に向けて、村田先生と私は放課後練習をした。原稿もよりよいものに書き換えていった。私と村田先生の関係はより深まっていき、彼は私のよき指導者になっていった。強調するために台を叩いたり節を変えたりする箇所など、細かいところまで練り直した。作業が続く中、私は疲れがたまってきた。というのは、先生は私が本当に言いたいことを書き換え、先生自身が考えたメッセージを使うように要求してきたからだ。私の小さな心は、それを重く感じ始めていた。


私は頑固に自分の見解を持っていた。それは、原爆で死んでしまった人の方が実は幸せ者だと思っていたのだ。生き残った人達は、すべてを失った上に恐ろしい記憶と出来事に耐え続けていかなければならない。ある日村田先生は私に厳しく言った。死んでしまった人々を敬う上で、死んでしまった人々の中に、自らの命を犠牲にした多くの兵士をいれるべきだと。この変更は、私が広島で弁論しなくてはならないために行わなければならなかった。私個人の感情や信念は、もはや決して前面に出すわけにはいかなかった。私は決して同情を買うためにそうしたいのではなかった。私は自分の心の奥深くを見つめなければならなかった。父以外で、唯一の男の人との衝突だった。