私は学校からまっすぐ家に帰らずに父の墓へと向かった。今までの辛く長い日々、父だけが私を見守ってくれていた。今度は私が輝く番だ。今までひどい扱いを受けてきたが、私は今や甦って芽吹いたのだ。私は自分の心のままに、正しい道を歩んでいることを確認しながらここまでやって来た。今、私に差し出された新しい挑戦に立ち向かう勇気を持たなければならない。大田中学校の新しい始まりの兆しとなるのだ。


村田先生は非常に厳しく、風紀の先生として知られていた。私は先生の最も厳しい指導を味わった。先生は私の話術を磨くために、独自の方法で型にはめていった。しかし、私が手を抜いて全力を出していない時以外は、暖かく優しく接してくれた。先生は私を見抜いており、すべてに完璧を求めた。先生は私の喉を守るために、ハチミツとお湯をよく持ってきてくれた。先生の指導のおかげで、私は段々と話しぶりや話術が上達してきた。村田先生と私の間に絆が生まれた。私の人生に新しい流れが確実に起こっているのを感じた。


地区大会は高田村で開催されることになった。高田村は、徳川幕府時代、浅野一門が集ったことで歴史的に有名な町として知られていた。胤森家にとっては、姉の佐津子と千早子が広島市から疎開した時に暮らしていた村だった。実際に高田村に行ってみると、私たち家族がみんな一緒だった頃を思い出した。村へと向かうバスの中、それらの大事な思い出が津波のように押し寄せて溢れてきた。


会場となった講堂は立見席までいっぱいになっていた。席に座ってすべての聴衆の顔を見ると、心臓が飛び出そうなほどドキドキした。最初の3人は、はっきりした口調で模範的な申し分のない演説だった。私は自分のことだけに焦点を合わせ、じっと座っていた。短い休憩の間、村田先生は私を一目見て激励し、私の自信を支えようとしてくれた。


休憩後、いよいよ私の番が来た。私は遂に立ち上がると、この何週間かの指導で学んだことの全てを思い出すことのみに集中した。今私はちょうどレコードに針を置く時と同じようだ。さあ、始めるぞ!


前半が過ぎた辺りで勇気を振り絞って聴衆を見渡してみると、彼らが涙を浮かべているのに気づいた。魂をもだえ苦しませた私の苦痛は、初めて柔らかいクッションと安らぎの場所を見つけた。私は父の散髪の場面を描写し、次に原爆で親を亡くした孤児たちの苦しみについて、はっきりと勇敢に話した。
「・・・それからそれは、死んだ人の魂のために祈る公の祈念式が行われる広島の原爆記念日での習慣になりました。そうです、私たちはもちろん死んだ人の魂を尊敬しなければなりません。しかし恐らく、私たちは未来について考えるべきです。死んだ魂の苦痛以上に、継続している苦痛について考えたことがあるでしょうか? 私たちは原爆で生き残った人たちの魂のために祈るべきです。私たちが被ってきたすべての苦痛の記憶を通り抜けるために。」

最後の16分間のメッセージは、すべて私の心から溢れ出たものだった。講堂は称賛で満たされた。しかしその称賛の真ん中で、大きな声で怒った非難の声が聞こえた。彼らは、私の話が死んだ人だけを認めるべきだと捉えていたことがわかった。彼らは将来を没収され否定されてきた生存者だったのだ。なぜ死から逃れた私たちがそうしなければならないのかと、彼らは主張した。


大会の授与式では、意外な結果に驚きが起こった。私は確実に聴衆の心をつかんでいた。村田先生は誇りに満ちて微笑んでいた。私が一等賞のトロフィーを手にした時、数人の人たちが大きな声で異議を唱えた。私は感謝して、村田先生にトロフィーを向けた。
「よかった、よかった!」
先生は私の肩をつかんで、喜びを隠せないでいた。
「先生、ありがとうございました。すべて、先生のおかげです。」
私のために献身と犠牲を払ってくれた先生にお礼を言った。私の話しぶりを作ってくれたのは、私ではなく先生だったからだ。


私は息苦しい講堂から勢いよく外に出た。数人の大人たちが、私の話が自己本位であることを理由に叱責しようとドアの外で話し合っていた。命を奪われ未来を与えられなかった死者にこそ最も思いやりを向けるべきだと。彼らは言った。
「生き残った一つの証が賞を受けることだと言うのか?」
私は不意打ちを食らった。私の心は予期していなかった対立に動揺した。私は静かにたちすくみ、彼らに目で理解を求めた。私の靴の先に涙がこぼれ落ちていった。