私は“不良少年”という、汚名の烙印を押された。確かにそう呼ばれても当然だった。中学生の間に、私の態度や評判はますます悪くなった。私は度々怒りから事件を起こした。ある時、村の指導者が偶然に落とした眼鏡を踏みつけ、よろめきながら私を追いかけようとしたその可哀相な人を馬鹿にして笑った。いい気味だと。


私は他の2人の不良と共に、自分たちのことを“3人のならず者”と呼び、騒ぎを起こした。トラックを追いかけてパチンコで運転手を当てようとしたり、神社にお供えしてある卵や果物をこっそり盗んだりした。旅人の目印になっているお地蔵さんを反対側に動かしたりもした。また、新聞紙に乾燥した雑草を巻いて吸ったり、公然と酔っ払ったふりをして歩いたりもした。私たちは、学校の先生や警察、そして村の指導者たちのも不良少年として知られるようになり、絶えず疑いの目で見られていた。


ある日学校から帰ると、佐津子と一緒にお茶を飲んでいる数人の村人たちがいた。佐津子は21歳になっていた。彼女は年長者たちの前でお辞儀をしながら話していた。
「胤森家の子供たちがこうして生活できるのも、皆様方のご好意のおかげです。皆様方のお心に深く感謝しております。」
彼女が何度も頭を下げる姿が、まるでひょいと頭を上げたり下げたりして水を飲む鳥のおもちゃのように見えて、私は吐き気がした。


佐津子と私はお互いに矛盾を感じていた。彼女は、家族が生き残っていくためには社会の規範に従うことが大切であり、それが胤森家のためだと思っていた。一方私は、魂を売ることは胤森家の本質を破壊するものであり、たとえ社会の規範に逆らったとしても、自分自身の心に正直でなければならないという父の教えを固く守ろうとした。私たちは対極にいて、お互いを恐ろしい敵として見始めていた。


佐津子は家族の長として、非の打ちどころのない社会的な振る舞いが私たちの生き残る鍵だと説教した。日本の社会、特にこのような小さな村では、指導者の判断にすべての村民が一致して従うことが強く求められていた。村の掟に反抗的な態度を取ると、“村八分”にされることがはっきりしていた。地域社会の団結と個人が村の規律に従うことへの強制は、非常に強力なものだった。孤児であることで身分を辱められた私たちにとっては、それを受け入れることが唯一の道であると、佐津子は言った。


自分を押し殺してでも、全体の調和の方がはるかに重要だった。彼女は「出る杭は打たれる」ことを知っており、私がその杭だということがますます明らかになってきた。私には人と同じ決められた道をただ進んでいくなど我慢できなかった。そうすることは、父の教えに背くことになるからだ。父はいつも言っていた。自分自身の心の声に従い、真実を述べて、自分自身に忠実でいることが大切なのだと。私は周囲の偽善行為にますます腹を立てていた。