日本では8月15日はお盆で、肉体から離れた魂は、子孫に温かく迎えられて家に帰る。1945年8月15日、私は村でたった1台しかないラジオの周りにぎっしり集まった村人達と一緒にいた。私達はパチパチと音のするラジオから、裕仁天皇の声を聴いた。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」
それは日本の降伏を知らせるものだった。日本は戦争に負けたのだ。


それから2〜3週間、父は母と小夜子を探しに、何回も広島へ戻る苦しい旅をした。私は父の勇気に驚いたが、日に日にひどく痩せて顔が青白く見えることが心配だった。このことで父が繰り返し繰り返し危険な放射能にさらされているとは、その時私達は知る由もなかった。


ある夜、父は深夜11時に帰ってくると、疲労と悲しみに震えながら、納屋の床にがっくりと崩れ落ちた。父は小さなつぶれた金属製の急須をしっかり握っていた。急須の中にあるのは小夜子の小さな骨のかけらで、残っていたのはこれで全部だと言った。私達は母も小夜子も死んでしまったことをもはや否定することはできなかった。
「いやだ、いやだ、いやだ!」
私は父に飛びつき、父の胸を叩きながら叫んだ。佐津子と千早子が私を父から離すと、父は私がむせび泣き続けるのを何かを思いながら見ていた。姉のマスヨは、この頃にはもう継続的な痛みがあり、顔を壁の方に向けるのが精一杯だった。もはや泣くには衰弱しきっていたのだ。父は、母と小夜子を見つけられずにすまなかったと何度も何度も謝った。揺らめくロウソクの灯りから見える父はとてもやつれていて、洋服は灰だらけだった。父自身が死神のように見えた。


マスヨの容態は悪化していた。私達はせんべい布団に寝かせたまま、彼女を注意深く新しい家に運んだ。彼女は幽霊のようにやせ衰えていた。私達は彼女がなぜこんなに具合が悪いのかわからなかった。彼女は食べ物を受け付けず、またいつも喉が渇いていた。貞義はいつも彼女の側にいて、痛みのためにうめき声を上げると、彼女の腕をさすってあげた。私は死神がどこかへ行くようにと祈った。


食べるものがほとんどないので、佐津子と千早子は収穫後の畑に残っている飼料用の野菜を取りに行った。ある朝、彼女達が出かけている間に、父は私にハサミを手渡した。父は、母に会った時にハンサムに見えるように私に髪を切ってほしいと頼んだ。その言葉は私の心にしみた。父が母に会えるのは、父が天国に行った時しかないと分かったいたからだ。
「お父さん、間違って耳を切ってしまったらどうしましょう。」
私は涙を隠して冗談を言った。
「このハサミはさびているから、豆腐だって切れないだろう。」
私は散髪をするのに髪を持ち上げようと、指で父の髪をすいた。すると、髪のかたまりがバサッと私の手に落ちた。
「わあ、何てことだ!」
根っこから全部抜けた一握りの髪を父に見せようとして、私の小さな手は震えていた。私は気も狂わんばかりにそれを父の頭皮に貼り付けようとした。しかし父は手を伸ばし、私の手を取った。
「貴士、いいんだよ。お父さんは疲れた。少し横になる。」
私は父が横になるのを手伝い、頭の下に枕を置いた。父の不規則な呼吸を聞きながら、私はぴったりと父の横にいた。父はおばけのように見えた。間もなく父は深い眠りに落ちた。たった1つの15ワットの電球が、不気味な影を落としていた。私の世界は崩れ落ちようとしていた。その日の遅く姉達が帰ってくると、私は今日の出来事を話した。