「芳子は帰ってきたか?」
誰かの声が広場の向こう側から聞こえた。普通なら家長である父の名を呼ぶのに、不自然だと思った。私達から彼女に近づき、父は躊躇せずに言った。
「栄のお母さん、胤森貞夫です。」
父はそう言うと、祖母と夫の栄二郎にお辞儀をした。祖母のトメは、私達とその向こう側を探るように見た。彼女は青白くなった。娘の芳子がいなかったからだ。父は続けてこう言った。
「私達は帰ってきました。しばらくお世話になりたいのです。」
「芳子はどこにいるんだい? お前は子供達だけ連れてきたのかい? 芳子はどうした?」
父は深く頭を下げた。
「娘がいないのに、どうしてお前達を家に連れて行けるというんだ。お前は何を考えているんだ。自分だけ無事に逃げて、妻を後に残してくるなんて。お前は臆病者なのか?」
誰も今まで、そのように父に言ったことはなかった。広島では、人々は父に従っていた。今、1人の女性が公衆の面前で父に恥をかかせていた。祖母は狂気じみていた。夫の二郎はトメを止めようとはしなかった。祖母の爆発は聴衆を引き寄せた。
「私の娘はどこにいるんだ。なぜ答えない? お前は耳が聞こえないのか?」
父はただ黙っていた。私は拳を握りしめた。父は私達の命を救ってくれたのだ。それなのに、なぜ祖母は父に恥をかかせているのか。母がいなかったことで、私達は歓迎されなかったのだ。私の小さな心は、怒りに震え混乱していた。


村の長老の永田亀三さんが、祖母の前にまっすぐに歩み寄ってこう言った。
「トメさん、もう十分でしょう。あなたの義理の息子さんは、ここにあなたの家族を連れてきてくれたんですよ。感謝しなくちゃ。心を開いて、歓迎してあげなさい。」
二郎は妻の腕を取り、私達に一緒に来るように合図した。彼らの後について歩きながら、胤森の祖父は父に言った。
「貞夫、彼女の攻撃に耐えるのは辛かったろう。感謝している。許してくれ。」
優しいアーチ型の眉をした永田さんや村人の目もあって、トメは私達に寝床を与えた。そこは、庭仕事の道具などを置くための小さな納屋だった。その納屋は屋根と床があるだけの質素なものだったが、私達にとっては宮殿のようだった。私達は感謝して床で眠りについた。トメが納屋の小さな扉を一度叩いて、ごはんとお汁とお茶を少し持ってきたと伝えた。マスヨ姉さんは、私の傷を清潔にするために少しお茶を使った。しかしトメにとっては、芳子のいない私達は彼女の家族ではなかった。母の芳子の血が流れている孫でも、もはやどうすることもできなかった。


こうして紅葉村での生活が始まった。初日の静かな夜は不意に終わりを告げた。トメが小屋の外で叫び始めたのだ。
「臆病者! 私の娘を地獄に置き去りにしてきたくせに、どうしてお前達を一緒に住めるというんだ。いったいどういうつもりなんだ?」
私はトメに、落ち着いて話をしてくれるよう願っていた。父は依然として無言で彼女の攻撃に耐えた。トメは父の強さと忍耐を決して理解しなかった。彼女は扉をぴしゃりと閉めて、怒りがおさまらないまま家へと入って行った。