「どうしてお父さんはこのことを僕に念押ししなければならないのだろう。」
私はつぶやいた。なぜなら私が生まれた時から、繰り返し繰り返し何度も何度もこれらのことは聞かされていたからだ。父はお茶がほしいと言った。一口飲むと、また続けた。
「社会的な地位や富で、人をうらやんではいけない。物質に執着することは、お前の心に嫉妬心の鎖を巻きつけるようなものだ。それよりも、自分自身の心の豊かさの上に生活を築きなさい。」


実際、私達胤森家は近所でもあまり裕福ではなかったが、私は両親が私達兄弟姉妹に不自由な思いをさせていると感じたことはなかった。広島市が戦争の真っ只中にあった時でさえ、私達に不平不満はなかった。少年であった私は、いかに「生きる」かを学んだ。果てしなく続く物質的な豊かさに依存しない生き方を・・・。一息ついて父は続けた。
「その人に何一つ言うべき良いことがなければ、それを言ってはいけない。反対に、その人に言うべき良いことがあれば何でも、大いなる喜びを情熱と真心を込めてそれを伝えなさい。」


父は私が左利きであることで私を判断したり、それが悪いとか社会に合わないとか言うことはなかった。一方、母は情け容赦なく私をしつけた。父は、私は私であるのだからと、私が何かに秀でるよう励ましてくれた。おつむはからっぽで手に負えない左利きの小学2年生のワンパク坊主であっても、父は私が努力して何かを達成した時には、ご褒美に映画に連れて行ってくれた。


父の声が段々しくなってきた。父の突き刺すようなまなざし以外、私には父の言っていることがほとんど聞こえなかった。
「年長者の知恵を敬いなさい。常に彼らを心から尊敬しなさい。それから、それから・・・。」
「お父さん、もういいです。貴士はお父さんの心はちゃんとわかっていますから。もう何も言わないで。お体に悪いですから。」
「貴士、ありがとう・・・。」
父は横になる前にすべて言い終えたいと思っていたのだろう。まるで父の魂そのものを私に与える最後の機会であるかのように、体を揺すって一息に言った。
「苦しんでいる人や助けを必要としている人を気にかけなさい。お前の子供達に、お前がどれくらい愛しているかを伝えなさい。道徳的な生活を送ることで、他の人たちに良い手本を示しなさい。昨日の達成に満足せず、日々新しい高みに立とうとしなさい。」
私の目を見つめながら、真珠のような涙が父の魂からあふれた。父は私の手をしっかりと握っていた。
「貴士、このことはとても大切だ。何かを決める時に、お前の周りに誰一人いないからといって、間違った自分勝手な選択を自由にしていいということではない。それが正しいという理由でそれをしなさい。結果を考えることなく、本当のことをいつも言うことで、他の人たちに道徳的な生活の良い手本を示しなさい。そうすればお前の言葉は、お前と同じくらい信用できることが周りの人たちにもわかるだろう。いつでもお前は信頼できる人間だと他の人にわかってもらう必要がある。貴士、父の言葉をお前の心と魂に受け入れると約束してくれ。」
目に涙をためて、私は真剣に心から父に誓った。
「お父さん、僕はお父さんの教えを絶対に守ります。そして僕の子供達に伝えます。」


私と姉達は一晩中父の傍らにいた。翌朝5時、父は突然棒のようにまっすぐに座ったかと思うと、うめき声を上げ支離滅裂なことを叫びながら倒れた。父の体は最後に1回激しく痙攣すると、静かに横たわった。私の人生の光を放つ最も大事な人を、死神は連れて行ってしまった。
「おとうさーーーーん!」私は父を揺すった。
「おとうさーん、僕達を置いていかないで!」
私は気が狂ったように泣き叫んだ。佐津子と千早子は父の体から私を引き離そうとした。近所の3家族が急いで手伝いに駆けつけた。彼らが私を父から離れることを納得させた頃には、父の体は冷たくなり始めていた。


1945年9月3日午前5時、父胤森貞夫は亡くなった。37歳だった。近所の人たちが父を火葬場まで運ぶのを手伝ってくれた時、父の目は天を見据えて大きく見開いていた。父はまだ母を捜していたのだ。
「おとーーさーーーん、さようなら・・・。」
私達は父に別れを告げた。


次の日、私達は灰を集めに戻った。驚いたことに、父の骨は最期に抵抗して、燃えることを拒んでいた。燃える代わりに溶け合って、青みがかった灰色の物体になっていた。それはまるで侍の刀のようだった。私達は松でできた埋葬箱に灰だけを収め、侍の刀のような物体は置き去りにしなければならなかった。


9月5日、私達は父の埋葬の儀式を執り行った。祖母トメと息子のテツ叔父さんは、全くの見せかけの偽善で、私達とともに墓地に同行した。父をひどく冷酷に扱ったトメは、今や父の死を本当に悼んでいるかのように振る舞っていた。私は怒りに震えていた。しかし父の教えが、私に冷静になるよう導いてくれた。私は心の中で、決して不誠実な行いはしないことを誓った。


埋葬の後で家に帰ってみると、マスヨの苦しみも終わっていたことがわかった。愛しい姉は父とともに天国へ旅立ったのだ。私の人生に不可欠だったものは、すべて消えてしまった。14歳の佐津子、12歳の千早子、8歳の貴士、3歳の貞義。胤森家でたった4人の兄弟姉妹だけが生き残った。紅葉村では、原爆で両親を失ったのは私達4人だけだった。悲しいことに、日本の社会では孤児というのは軽蔑と社会的な恥としての価値しかなく、最低の最低であると考えられていた。私達はすぐにそれを知ったのだった。